家事の人
取ったら、何も残らないものだったこと

朗読で聴く
第一章 向こう
六十四になった。
母は、去年の秋に、九十で、死んだ。
母は、家事の人だった。
朝、起きて、米をとぐ。
洗濯をして、干す。
昼を作る。
掃除をする。
夕飯を作る。
風呂を沸かす。
寝る。
次の日も、同じだ。
六十年、それだけを、見た。
父は、こちらが二十のとき、死んだ。
父が死んでも、母の一日は、変わらなかった。
変わらないのを、こちらは、こわいと、思った。
こわいのは、中に、何も無い人のように、見えたからだ。
こちらは、子どものころから、思っていた。
家事の向こうに、本当の母が、いる。
家事は、母の外側だ。
外側を取ったら、中に、母がいる。
母が、何を思って、何が好きで、何を悔やんでいるのか。
それが、本当の母だ。
こちらは、それを、探した。
六十年、探した。
母に、聞いた。
お母さん、好きなことは、何。
母は、言った。
別に。
こちらは、聞いた。
若いとき、何に、なりたかったの。
母は、言った。
覚えてない。
こちらは、思った。
隠している。
家事の向こうに、隠している。
いつか、出てくる。
出てこなかった。
死ぬまで、出てこなかった。
こちらは、死ぬまで、待っていた。
待って、見逃したと、思った。
第二章 取ったら
母が、死んだ。
家を、片付けた。
母の物は、少なかった。
台所の道具。
洗濯の道具。
掃除の道具。
箪笥に、着物が、三枚。
日記は、無かった。
手紙も、無かった。
写真は、家族の物だけだった。
母だけの物が、何も、無かった。
六十年、探していた物が、片付けの三日で、無いと、分かった。
こちらは、探した。
押し入れの奥。
箪笥の底。
仏壇の引き出し。
無かった。
こちらは、座り込んだ。
座って、思った。
家事を、取ったら、何も、残らない。
本当の母は、どこにも、いない。
いなかったのか。
いなかったのだと、思った。
からっぽだったのだと、思った。
六十年、外側だけの人を、母だと、思っていたのか。
悲しかった。
悲しいまま、台所の道具を、箱に、入れた。
入れながら、手が、止まった。
鍋の柄が、擦れていた。
六十年分、擦れていた。
しゃもじの先が、丸くなっていた。
六十年分、丸くなっていた。
これは、外側では、ない。
外側なら、六十年で、こうは、ならない。
第三章 版画
若いころ、版画を、見た。
一色の、シルクスクリーンだ。
白い紙に、黒いインクが、一つ、刷ってある。
黒いのは、椅子の形だった。
線では、ない。
中まで、黒く、詰まっている。
見せてくれた人が、言った。
このインクは、椅子の周りの線じゃない。
椅子そのものだ。
インクを取ったら、椅子は、何も、残らない。
こちらは、聞いた。
中に、何も、無いんですか。
その人は、言った。
中まで、インクだ。
中と、外の、区別が、無い。
全部が、椅子だ。
線で描いた椅子なら、線を取っても、中に、白い椅子が、残る。
この椅子は、残らない。
残らないから、本物だ。
こちらは、そのとき、分からなかった。
母の鍋を、箱に、入れて、分かった。
母は、線では、なかった。
こちらは、母を、線だと、思っていた。
家事という線の、内側に、本当の母が、いると、思っていた。
線では、なかった。
塊だった。
家事が、母そのものだった。
中まで、家事だった。
中と、外の、区別が、無い。
家事を取ったら、母は、何も、残らない。
残らないのは、からっぽだったからでは、ない。
家事が、全部だったからだ。
鍋の柄の擦れが、母だ。
しゃもじの丸さが、母だ。
外側だと思って、六十年、見ていなかったものが、母の全部だった。
見ていなかったのではない。
毎日、見ていた。
見ていて、母だと、思わなかっただけだ。
母だと思わなかったのは、母の外側だと、決めていたからだ。
第四章 探していたもの
こちらは、六十年、母の中身を、探した。
中身は、無かった。
無かったのではなく、探し方が、違った。
線の内側を、探した。
線では、なかったので、内側が、無かった。
内側が無いのは、線ではないからだ。
塊の中は、塊だ。
中を探すと、外と同じものが、出てくる。
家事を探すと、家事が、出てくる。
こちらは、それを、中身が無い、と思った。
中身が無いのではない。
全部が、中身だ。
母に、聞いた。
好きなことは、何。
母は、言った。
別に。
あれは、隠したのでは、なかった。
本当に、別に、だった。
家事の向こうに、好きなことは、無かった。
家事が、母だった。
好きも、嫌いも、家事の中に、あった。
米をとぐ手の速さに、あった。
洗濯物を、干す順に、あった。
こちらは、それを、見ていた。
見ていて、外側だと、思っていた。
外側の向こうを、探していた。
向こうは、無かった。
こちらが、見ていたものが、全部だった。
六十年、母を、見ていた。
見ていたのに、探していた。
探すことで、見なかった。
探すのを、やめたら、見える。
見えるのは、鍋の柄と、しゃもじの先だ。
それだけで、母だ。
やめたのは、母が、死んでからだ。
第五章 塊
娘に、言った。
娘は、三十八だ。
お祖母ちゃん、家事の人だったでしょう。
娘は、言った。
うん。
こちらは、言った。
家事の向こうに、本当のお祖母ちゃんが、いると、思ってた。
娘は、言った。
いなかったの。
こちらは、言った。
いなかった。
家事が、全部だった。
娘は、黙った。
こちらは、続けた。
からっぽだったんじゃ、ない。
家事の中まで、お祖母ちゃんだった。
娘は、言った。
私、お母さんのことも、そう思ってる。
こちらは、聞いた。
何を。
娘は、言った。
お母さんの、本当のところが、どこかに、あるって。
こちらは、笑った。
笑って、言った。
無い。
娘は、言った。
無いの。
こちらは、言った。
あなたが、見てるのが、全部。
取ったら、何も、残らない。
娘は、黙った。
黙って、言った。
それって、さびしくない。
こちらは、少し、考えた。
こちらは、言った。
さびしくない。
全部、ここに、ある。
線じゃない。
塊だ。
娘は、うなずいた。
うなずいて、言った。
じゃあ、探さない。
こちらは、言った。
探さないで、見て。
娘は、鍋を、見た。
母の鍋だ。
柄が、擦れている。
エピローグ
母の鍋を、使っている。
柄の擦れたところに、手が、当たる。
母の手が、六十年、当たったところだ。
これが、母だ。
向こうは、無い。
六十年、向こうを、探した。
探した六十年、母は、目の前に、全部、いた。
家事の人だった。
家事を取ったら、何も、残らない。
残らないのは、家事が、母そのものだったからだ。
線ではなく、塊だった。
中まで、詰まっていた。
こちらは、線だと思って、中を、探した。
中は、外と、同じだった。
同じなのを、無いと、思った。
無くなかった。
全部だった。
鍋の柄が、擦れている。
こちらの手が、そこに、当たる。
こちらも、いつか、取ったら、何も、残らない人に、なる。
それで、いい。
残らないのは、全部だったからだ。
娘には、探さないで、見てと、言った。
見れば、ある。
鍋を、火にかける。
湯が、沸く。
母の鍋で、沸く。
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