右手
切られた面が、いちばん硬くなっていたこと

朗読で聴く
第一章 二本
七十二になった。
二十四のとき、右手の指を、二本、失った。
小指と、薬指だ。
工場の、機械だった。
医者は、言った。
右手は、細かい仕事には、使えなくなります。
こちらは、二十四で、細かい仕事を、諦めた。
こちらは、そう思った。
右手は、切られた。
切られた手は、弱い。
左手で、生きよう。
そう思って、一年、左手で、生きた。
箸も、左で、持った。
字も、左で、書いた。
左の字は、揺れた。
揺れた字を、一年、書いた。
右手は、隠した。
ポケットに、入れていた。
人と、話すとき、右手を、出さなかった。
出さないで、一年、いた。
父は、こぐち木版の職人だった。
木の切り口に、細い線を、彫る。
父は、こちらの右手を、見て、言った。
その手で、彫れ。
こちらは、言った。
切られた手だ。
父は、言った。
切られた手だから、彫れる。
こちらは、意味が、分からなかった。
分からないまま、父の言うとおりに、右手で、刀を、持った。
持てた。
三本の指で、持てた。
彫った。
彫れた。
左手より、細く、彫れた。
父は、何も、言わなかった。
言わないで、次の版を、こちらの前に、置いた。
こちらは、右手を、ポケットから、出した。
それから、隠していない。
第二章 切り口
父は、言った。
木は、切り口が、いちばん、硬い。
板の面は、柔らかい。
柔らかい面に、細い線は、彫れない。
切り口にだけ、髪の毛ほどの線が、入る。
だから、切り口に、彫る。
こちらは、聞いた。
手も、そうか。
父は、言った。
手も、そうだ。
切られた手は、締まる。
締まった手が、細い線を、引く。
こちらは、半分、信じなかった。
信じないまま、四十八年、右手で、彫った。
右手の、切られた側で、刀を、支えた。
小指と薬指の、無いところが、いちばん、締まっていた。
そこに、刀の柄が、当たる。
当たると、動かない。
動かないので、細い線が、引ける。
左手には、五本、指がある。
五本あると、柄が、動く。
動くので、線が、揺れる。
こちらの右手は、揺れなかった。
四十八年、揺れなかった。
揺れなかったのは、切られていたからだ。
切られた面が、締まって、刀を、止めていた。
止めているのが、無いところだと、気づくまで、長かった。
気づいたのは、五十を過ぎて、左手で、試しに、彫ったときだ。
揺れた。
右手に、戻した。
止まった。
第三章 仕事
四十八年、こぐち木版を、彫った。
父が死んでからも、彫った。
一人で、彫った。
工房に、若い人が、来た。
右手を、見て、言った。
その手で、彫れるんですか。
こちらは、言った。
この手だから、彫れる。
若い人は、分からない顔を、した。
こちらも、二十四のときは、分からなかった。
分からないまま、四十八年、彫って、分かった。
切られたところは、弱くならない。
硬くなる。
硬いところに、刀の柄が、当たる。
当たったところは、動かない。
動かないので、細い線が、引ける。
五本ある手には、当たるところが、無い。
指が、多いので、どこも、動く。
こちらの手は、二本、無い。
無いところが、当たるところに、なった。
無くなって、当たるところが、できた。
こちらは、それを、四十八年で、知った。
若い人に、言った。
切られたところで、支えるんだ。
若い人は、言った。
自分の手には、切られたところが、ありません。
こちらは、言った。
無ければ、無いで、いい。
あるなら、そこで、支える。
若い人は、自分の手を、見ていた。
五本、そろった手だ。
そろった手で、揺れる線を、引いていた。
揺れる線が、悪いとは、言わなかった。
揺れるのは、切られていない手の線だ。
第四章 妻
妻は、四十三年、いる。
妻は、こちらの右手を、見た、最初の人だ。
結婚の前に、見せた。
見せて、言った。
二本、無い。
妻は、言った。
知ってる。
こちらは、言った。
細かいことは、できない。
妻は、言った。
彫ってるじゃない。
こちらは、黙った。
妻は、続けた。
あなたの線が、いちばん、細いって、お父さんが、言ってた。
こちらは、黙った。
父は、こちらに、言わなかった。
妻に、言っていた。
妻は、それを、四十三年、覚えていた。
覚えていて、初めて、言った。
妻は、言った。
切られた手だから、彫れるって。
こちらは、言った。
父も、そう言った。
妻は、言った。
私も、そう思う。
こちらは、聞いた。
どうして。
妻は、言った。
私も、切られたところが、あるから。
こちらは、聞かなかった。
聞かないで、四十三年、いた。
妻の切られたところを、こちらは、知らない。
知らないが、妻が、細かいところで、こちらを、支えているのは、知っている。
どこで、支えているのかは、知らない。
切られたところで、支えているのだと、思う。
締まったところで。
こちらが、締まったところで、刀を、支えているように。
第五章 三本
去年、若い人が、初めて、一枚、彫り上げた。
持ってきて、見せた。
線が、揺れていた。
揺れているが、最後まで、彫ってあった。
こちらは、言った。
揺れてる。
若い人は、言った。
揺れます。
止まりません。
こちらは、右手を、出した。
三本の指で、刀を、持って、見せた。
柄が、切られたところに、当たっている。
こちらは、言った。
ここで、止まる。
若い人は、見た。
見て、言った。
自分には、そこが、ありません。
こちらは、言った。
無いなら、作るしかない。
若い人は、聞いた。
どうやって。
こちらは、言った。
分からない。
こちらは、切られて、できた。
切られないで、作れるかは、分からない。
若い人は、黙った。
黙って、言った。
切られたほうが、いいんですか。
こちらは、少し、考えた。
考えて、言った。
こちらは、言った。
いいわけがない。
切られたら、締まる。
それだけだ。
切られていないなら、それで、彫ればいい。
揺れても、いい。
揺れない線は、切られた手の線だ。
揺れる線は、切られていない手の線だ。
どちらも、線だ。
若い人は、うなずいた。
うなずいて、揺れた一枚を、持って、帰った。
エピローグ
朝、右手で、刀を、持つ。
三本の指で、持つ。
柄が、切られたところに、当たる。
当たって、止まる。
止まった手で、線を、引く。
髪の毛ほどの線が、引ける。
四十八年、引いている。
二十四で、切られた。
切られた手は、弱いと、思った。
一年、隠した。
父が、その手で彫れと、言った。
彫れた。
切られた手だから、彫れた。
木が、そうだ。
切り口が、いちばん、硬い。
硬い面にだけ、細い線が、入る。
手も、そうだった。
切られたところが、いちばん、締まった。
締まったところで、刀を、支えた。
支えて、四十八年、彫った。
こちらの線が、細いのは、切られたからだ。
切られてよかったとは、思わない。
切られた日のことは、いまも、思い出したくない。
切られた手で、彫ったとは、思う。
二本、無い。
無いところが、いちばん、硬い。
硬いところに、今日も、柄が、当たる。
当たって、止まる。
止まった手が、彫る。
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