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切り口

切られた面が、いちばん硬くなっていたこと

切り口

朗読で聴く

第一章 弱いと思っていた

六十六になった。

三十のとき、夫と、別れた。

娘が、一人いる。

四十一だ。

別れたとき、娘は、五つだった。

理由は、いまでも、言わない。

言わなくて、いい理由だ。

こちらは、そのとき、思った。

切られた。

切られたところは、弱い。

弱いところを、人に、見せないように、生きよう。

そう思って、三十六年、生きた。

別れの話を、人に、しなかった。

娘にも、詳しく、言わなかった。

切り口は、隠すものだと、思っていた。

柔らかくて、触ると、痛むものだと、思っていた。

三十六年、触らせなかった。

自分でも、触らなかった。

去年の冬、娘が、来た。

来て、言った。

お母さん、私、別れようと、思う。

こちらは、聞いた。

娘の話を、二時間、聞いた。

台所で、茶を、二度、入れ直した。

聞いて、驚いた。

こちらが、驚いた。

聞けたからだ。

細かく、聞けた。

娘が、何を言って、夫が、何を言い返して、そのとき、娘が、どこを、見ていたか。

全部、聞けた。

どこで、切れたかが、分かった。

娘より先に、分かった。

娘の夫が、言わなかったことも、分かった。

言わなかったところで、切れていた。

娘は、言った。

お母さん、どうして、そんなに、分かるの。

こちらは、答えられなかった。

分かることが、こわかった。

こわいまま、聞き終えた。

第二章 硬い

娘が、帰ってから、考えた。

どうして、聞けたのか。

こちらは、人の話を、細かく聞く人では、ない。

近所の話は、聞き流す。

妹の愚痴も、聞き流す。

聞き流すのは、柔らかいところで、聞いているからだ。

柔らかいところは、滑る。

娘の別れの話だけ、細かく、聞けた。

三十六年前、切られたところで、聞いていた。

そこだけ、細かく、聞けた。

こちらは、思った。

切られたところは、弱いと、思っていた。

弱くなかった。

硬かった。

三十六年、隠していた場所が、いちばん、硬くなっていた。

硬いので、細かいものが、そこに、刻めた。

娘の話の、細かいところが、そこに、刻めた。

ほかの場所には、刻めない。

柔らかい場所には、細かいものは、刻めない。

滑る。

切られた面だけが、細かいものを、受ける。

こちらは、それを、六十六で、知った。

知って、もう一つ、思った。

隠していたのは、弱いからでは、なかった。

硬いところを、人に、見せると、こわがられる。

それを、知っていたのだと、思う。

こわがられるので、柔らかいふりを、した。

ふりの下は、硬かった。

硬いのを、自分でも、知らなかった。

知らなかったのは、そこに、何も、彫らなかったからだ。

第三章 こぐち

若いころ、版画を、見た。

木の、切り口に、彫る版画だ。

こぐち木版と、言った。

彫った人が、言った。

木は、切り口が、いちばん、硬い。

板の面は、柔らかくて、細い線が、彫れない。

切り口だけが、細い線を、受ける。

だから、切り口に、彫る。

こちらは、そのとき、思った。

切ったところが、硬いのは、変だ。

切られたら、弱くなるはずだ。

彫った人は、言った。

木は、そうじゃない。

切られた面が、いちばん、締まる。

締まった面にしか、細い線は、入らない。

板の面に彫ると、線が、割れる。

切り口に彫ると、髪の毛ほどの線が、そのまま、残る。

こちらは、それを、四十年、忘れていた。

娘の話を聞いて、思い出した。

こちらの切り口は、締まっていた。

三十六年、締まっていた。

締まった面に、娘の話が、細く、入った。

入ったので、細かく、聞けた。

弱いと、思って、隠していた面が、いちばん、細かいものを、受ける面だった。

隠していたので、使わなかった。

使わないまま、締まっていた。

娘の話で、初めて、使った。

使ったら、細かく、入った。

滑らなかった。

三十六年ぶりに、そこに、何かが、彫られた。

第四章 娘の切り口

娘は、春に、別れた。

別れて、こちらの家に、来た。

来て、言った。

切られた。

こちらは、言った。

そう。

娘は、言った。

弱くなった。

こちらは、言った。

違う。

娘は、聞いた。

何が。

こちらは、言った。

弱くなったんじゃ、ない。

硬くなった。

娘は、黙った。

こちらは、続けた。

切られたところは、硬くなる。

いちばん、硬くなる。

隠さなくて、いい。

娘は、言った。

お母さんは、隠してた。

こちらは、言った。

隠してた。

弱いと、思ってたから。

三十六年、間違えてた。

間違えたまま、硬くなってた。

間違えても、硬くはなる。

娘は、言った。

どうして、分かったの。

こちらは、言った。

あなたの話を、聞いたとき。

切られたところで、聞いたら、細かく、聞けた。

ほかのところでは、聞けない。

娘は、黙った。

黙って、言った。

私も、いつか、誰かの話を、そこで、聞くの。

こちらは、言った。

聞く。

そこでしか、聞けない話が、来る。

娘は、少し、泣いた。

泣いて、言った。

硬くなる、って、いいこと。

こちらは、言った。

いいことでも、悪いことでも、ない。

木が、そうなる。

人も、そうなる。

そうなったところで、聞く。

第五章 彫る

娘は、こちらの家に、しばらく、いた。

夜、台所で、話した。

娘の話を、聞いた。

切られたところで、聞いた。

細かく、聞けた。

娘が、言い落としたことも、聞けた。

娘は、言った。

お母さん、そんなに、聞けるのに、どうして、三十六年、黙ってたの。

こちらは、言った。

彫る相手が、いなかった。

娘は、聞いた。

彫る。

こちらは、言った。

硬い面には、細い線が、彫れる。

彫る物が、来ないと、ただ、硬いだけ。

三十六年、ただ、硬かった。

あなたの話が、来て、初めて、彫れた。

娘は、黙った。

黙って、言った。

私の話が、彫られたの。

こちらは、言った。

彫られた。

細かく。

娘は、言った。

じゃあ、お母さんの、切られたところに、私が、いる。

こちらは、言った。

いる。

細い線で、いる。

娘は、泣いた。

こちらは、泣かなかった。

硬い面は、泣かない。

泣かないで、受ける。

受けて、線にする。

線は、消えない。

消えない線で、娘が、いる。

エピローグ

娘は、隣の町に、部屋を、借りた。

一人で、暮らしている。

週に一度、来る。

来て、話す。

こちらは、切り口で、聞く。

三十六年、隠していた面で、聞く。

隠していたのは、弱いと、思っていたからだ。

弱くなかった。

いちばん、硬かった。

硬い面にだけ、細いものが、入る。

木が、そうだ。

人も、そうだ。

切られた面が、いちばん、締まる。

締まった面が、いちばん、細かく、受ける。

こちらは、それを、娘が、切られてから、知った。

娘の切り口も、締まる。

いまは、まだ、痛いだろう。

痛いのは、締まる途中だ。

途中を、隠さないで、いてくれれば、いい。

締まって、いつか、誰かの話を、そこで、聞く。

そのとき、娘は、隠さない。

こちらが、言ったからだ。

こちらは、言われなかった。

言われなかったので、三十六年、隠した。

隠さなくて、いい。

いちばん、硬い面だ。

いちばん、細かく、彫れる面だ。

週に一度、娘が、来る。

切り口で、聞く。

聞いた話が、細い線で、残る。

ソウルミッション358

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