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動くふち

無いもののほうが、はっきりしていたこと

動くふち

朗読で聴く

第一章 娘が言った

七十一になった。

アメリカの、小さな町に、住んでいる。

夫は、四年前に、七十四で、死んだ。

娘が、一人いる。

四十五だ。

同じ町に、いる。

週に一度、来る。

春に、娘が、言った。

お母さんは、お父さんのことばかり、はっきり、覚えてる。

こちらは、言った。

そう。

娘は、言った。

私のことは、ぼんやり。

こちらは、黙った。

娘は、続けた。

お父さんの、コーヒーの飲み方。

新聞の、たたみ方。

車の、止め方。

全部、言えるでしょう。

こちらは、言った。

言える。

娘は、言った。

私の、コーヒーの飲み方は。

こちらは、言えなかった。

娘は、週に一度、来て、コーヒーを、飲む。

四十五年、見ている。

言えなかった。

娘は、言った。

ほらね。

いない人のほうが、はっきりしてる。

私は、ぼんやり。

こちらは、黙った。

黙って、思った。

娘の言うとおりだ。

言うとおりだが、理由が、違う。

理由を、その場で、言えなかった。

言えるようになるまで、ひと月、かかった。

第二章 跡

夫は、いない。

いない夫を、四年、作った。

コーヒーの飲み方。

カップの取っ手を、持たないで、胴を、持った。

新聞のたたみ方。

四つに折って、上を、内に、入れた。

車の止め方。

いつも、少し、右に、寄せた。

ふちまで、言える。

これは、夫では、ない。

こちらが、四年で、作った、跡だ。

夫が、押し当てていった形を、こちらが、ふちまで、追った。

追えたのは、夫が、動かないからだ。

死んだ人は、もう、飲み方を、変えない。

変えないので、追える。

追い終わると、はっきりする。

はっきりした夫は、夫が生きていたころより、はっきりしている。

生きていたころは、夫も、動いた。

右に寄せない日も、あった。

その日を、こちらは、四年のあいだに、削った。

削って、いつも右に寄せた人に、した。

作り込むとは、そういうことだ。

娘は、いる。

娘の、コーヒーの飲み方を、こちらは、言えない。

言えないのは、見ていないからだ。

娘は、そう思っている。

違う。

見ている。

毎週、見ている。

見ていて、言えないのは、毎週、違うからだ。

先週は、取っ手を、持った。

その前は、両手で、持った。

冬は、カップを、抱えていた。

娘の飲み方は、一つでは、ない。

一つでないものは、ふちが、無い。

ふちが無いものを、はっきり、言うことは、できない。

娘は、動いている。

動いているので、ぼんやりする。

ぼんやりしているのは、こちらが、見ていないからでは、ない。

娘が、生きているからだ。

生きている人を、一つに、言えない。

言えないことを、ぼんやりと、呼んでいた。

第三章 版画

夫は、若いころ、版画を、していた。

柔らかい地に、物を押し当てて、剥がして、酸に浸ける版画だ。

押し当てた物は、無い。

跡だけが、紙に、出る。

一度、夫が、言った。

跡のほうを、ふちまで、作り込む。

まだある物は、軽く、置く。

こちらは、聞いた。

どうして、ある物を、軽く、置くの。

夫は、言った。

ある物は、まだ、動くからだ。

動く物に、ふちを、付けたら、嘘になる。

こちらは、そのとき、分からなかった。

娘に言われて、分かった。

夫は、正しかった。

娘に、ふちを、付けたら、嘘になる。

娘は、動く。

来週、違う飲み方を、するかも、しれない。

するだろう。

その娘を、はっきり、言ったら、嘘だ。

言えないのが、正しい。

夫は、動かない。

動かない夫に、ふちを、付けても、嘘に、ならない。

ならないので、付けた。

四年かけて、付けた。

付けたふちの中に、夫は、いない。

いないから、付けられた。

はっきりしているのは、そのせいだ。

覚えているからでは、ない。

動かないからだ。

第四章 反対

娘は、言った。

いない人のほうが、はっきりしてる。

そのとおりだ。

娘は、それを、こちらが、いない人を、大事にしているからだと、思っている。

反対だ。

はっきりしているのは、もう、変わらないからだ。

変わらないものは、ふちまで、追える。

追えるものは、はっきりする。

ぼんやりしているのは、まだ、変わるからだ。

変わるものは、ふちを、追えない。

追えないものは、ぼんやりする。

ぼんやりしているほうが、生きている。

こちらは、それを、娘に、言おうと、思った。

言う前に、思った。

こちらも、娘には、ぼんやりしているだろう。

こちらは、まだ、いる。

いるので、動く。

動くので、娘は、こちらのふちを、追えない。

追えないので、ぼんやりしている。

いなくなったら、娘は、こちらを、ふちまで、作るだろう。

コーヒーの飲み方。

新聞のたたみ方。

はっきり、言えるように、なるだろう。

そのとき、こちらは、いない。

いないから、はっきりする。

はっきりされたら、終わりだ。

ぼんやりしているうちが、いい。

ぼんやりが、生きている印だ。

娘は、それを、こちらの怠りだと、思っている。

怠りでは、ない。

生きている人に、できることの、限りだ。

第五章 娘に

娘に、言った。

あなたの飲み方、言えない。

娘は、言った。

でしょう。

こちらは、言った。

言えないのは、見てないからじゃ、ない。

娘は、聞いた。

じゃあ、何。

こちらは、言った。

あなたが、毎週、違うから。

娘は、黙った。

こちらは、続けた。

先週は、取っ手を、持った。

その前は、両手。

冬は、抱えてた。

娘は、言った。

覚えてるじゃない。

こちらは、言った。

覚えてる。

でも、一つに、言えない。

一つに言えるのは、もう、変わらない人だけ。

娘は、黙った。

黙って、言った。

お父さんは、変わらないから、はっきりしてる。

こちらは、言った。

そう。

娘は、言った。

私は、変わるから、ぼんやり。

こちらは、言った。

そう。

ぼんやりのほうが、いい。

娘は、少し、泣いた。

泣いて、言った。

ぼんやりで、いいの。

こちらは、言った。

ぼんやりで、いい。

はっきりするのは、あとで、いい。

ずっと、あとで、いい。

あとで、あなたが、私に、付けて。

娘は、うなずいた。

娘は、コーヒーを、飲んだ。

両手で、持っていた。

先週と、違った。

それで、いい。

エピローグ

娘が、帰る。

週に一度、来て、帰る。

カップを、洗う。

娘の飲み方は、言えない。

言えないまま、洗う。

夫の飲み方は、言える。

言えるのは、動かないからだ。

動かないものだけが、はっきりする。

はっきりしているものは、もう、いない。

娘は、いる。

いるので、ぼんやりしている。

ぼんやりしている娘が、週に一度、来る。

来て、毎週、違う持ち方で、飲む。

違うのを、見る。

見て、一つに、言わない。

言わないで、置く。

軽く、置く。

軽く置くのは、見ていないからでは、ない。

動く物に、ふちを、付けないためだ。

夫が、言ったとおりだ。

ふちを付けたら、嘘になる。

娘に、嘘を、付けない。

ぼんやりのまま、いてもらう。

こちらも、娘の中で、ぼんやりのまま、いる。

いる間は、ぼんやりだ。

それで、いい。

カップを、伏せる。

伏せたカップに、ふちは、付けない。

来週、また、違う持ち方で、来る。

ソウルミッション358

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