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工場の音

無いもののほうが、はっきりしていたこと

工場の音

朗読で聴く

第一章 言える音

七十になった。

妻は、いる。

六十七だ。

四十年、町の工場に、勤めた。

工場は、三年前に、閉まった。

建物は、去年、壊された。

いまは、空き地だ。

こちらは、毎日、公園に、行く。

工場の跡の、隣の公園だ。

ベンチに、座る。

三年、毎日、座っている。

工場の音は、言える。

朝の、機械の立ち上がりの音。

低くて、途中で、一度、詰まって、それから、回った。

昼の、ベルトの音。

左の二番目のベルトだけ、少し、高かった。

夕方の、止まる音。

止まったあと、三十秒、何かが、冷める音がした。

全部、言える。

三年、聞いていない音だ。

公園のベンチの形は、言えない。

三年、毎日、座っている。

座っている板が、何枚か、知らない。

背もたれが、あるか、無いか、いま、言えない。

立ち上がって、見に行かないと、言えない。

三年、聞いていない音のほうが、三年、座っている板より、はっきりしている。

第二章 跡

空き地を、見た。

工場の跡だ。

地面に、機械が立っていた場所が、残っている。

四角く、色が、違う。

その四角を、こちらは、言える。

右から二つ目が、旋盤だった。

その奥が、こちらの機械だった。

四十年、そこに、立った。

四角の、ふちまで、言える。

ふちの、欠けているところまで、言える。

欠けたのは、二十年前に、台車を、ぶつけた日だ。

その日まで、言える。

こちらは、ベンチに、戻った。

戻って、座った。

座って、ベンチを、見た。

板が、三枚だった。

背もたれは、あった。

三年、知らなかった。

板の色も、初めて、見た。

灰色に、近い茶色だった。

三年、毎日、座っていて。

空き地の四角は、三年、見ていない。

見ていないのに、言える。

ベンチは、三年、毎日、座っている。

座っているのに、言えなかった。

無い物は、言える。

ある物は、言えない。

こちらは、思った。

無い物を、はっきりさせて、ある物を、ぼんやりさせている。

いつから、そうなのか。

工場が、閉まってからだ。

閉まる前は、工場の音を、言えなかった。

毎日、聞いていた。

聞いているので、言おうと、思わなかった。

閉まって、聞こえなくなって、言えるようになった。

言えるようになったときには、無かった。

第三章 版画

工場に、版画の好きな人が、いた。

こちらより、十ほど、年上だった。

一度、家に、呼ばれて、見せてもらった。

柔らかい地に、物を押し当てて、剥がして、酸に浸ける版画だ。

押し当てた物は、無い。

跡だけが、紙に、出る。

その人は、言った。

この画風は、跡を、いちばん、作り込む。

ふちまで、追う。

まだある物は、軽く、置いて、途中で、やめる。

だから、無い物のほうが、ある物より、はっきり、見える。

こちらは、聞いた。

どうして、そうするんですか。

その人は、言った。

人が、そうだからだ。

あるうちは、見ない。

無くなってから、作る。

作ったものだけが、はっきりする。

こちらは、分からなかった。

七十で、分かった。

工場の音は、無い。

無い音を、三年、作り込んだ。

ふちまで、追った。

ベルトの二番目が、高かったところまで。

ベンチは、ある。

ある物を、軽く、置いた。

途中で、やめた。

やめたのは、いつでも、見られるからだ。

見られる物は、見ない。

見ない物に、ふちは、できない。

無い物は、見られない。

見られないので、中で、作る。

作るので、ふちまで、できる。

できたものを、工場だと、思っている。

工場では、ない。

こちらが、作った、跡だ。

跡は、工場と、同じ形をしている。

同じ形だが、工場では、ない。

第四章 軽く置いた物

妻に、言った。

ベンチの板、三枚だった。

妻は、言った。

知ってる。

こちらは、聞いた。

どうして。

妻は、言った。

座ってるもの。

こちらは、言った。

こちらも、座ってる。

三年。

妻は、言った。

あなた、座ってるとき、工場を、見てる。

こちらは、黙った。

妻は、続けた。

工場、無いのに。

こちらは、言った。

無いから、見える。

妻は、言った。

ベンチは、あるから、見えないの。

こちらは、言った。

そうらしい。

妻は、少し、笑った。

笑って、言った。

私も、あるから、見えない。

こちらは、黙った。

妻は、言った。

いいの。

あるから。

妻は、それで、いいと、言った。

こちらは、それで、いいとは、思えなかった。

こちらは、思った。

妻を、軽く、置いている。

四十三年、軽く、置いている。

いるからだ。

いる人は、いつでも、見られる。

見られるので、見ない。

妻のふちを、こちらは、言えない。

茶碗の持ち方も、靴の脱ぎ方も、言えない。

いなくなったら、言えるだろう。

言えるように、なるだろう。

ふちまで、作り込むだろう。

工場のように。

そのときは、確かめる相手が、いない。

確かめる相手がいないので、はっきりする。

はっきりしたものは、妻では、ない。

こちらが作った、妻の跡だ。

跡を作る前に、妻を、見ておきたい。

第五章 見る

次の日、公園に、行った。

ベンチに、座らなかった。

立って、ベンチを、見た。

板が、三枚。

真ん中の板が、少し、へこんでいる。

こちらが、三年、座った場所だ。

背もたれは、二本の横木。

上の横木の、右のほうが、少し、擦れている。

こちらの、肩の場所だ。

全部、初めて、見た。

三年、座っていた物を、初めて、見た。

見て、思った。

これも、跡だ。

こちらが、押し当てた跡だ。

まだ、こちらは、ある。

あるのに、跡が、できている。

あるものにも、跡は、できる。

できているのに、見ていなかった。

軽く、置いていたからだ。

空き地の四角と、ベンチのへこみは、同じ物だ。

片方は、無くなった物の跡で、片方は、まだある物の跡だ。

無くなった物の跡だけを、こちらは、ふちまで、追っていた。

まだある物の跡は、追わなかった。

追わないうちに、無くなる。

無くなってから、追う。

それを、もう一度、やろうとしていた。

ベンチに、座った。

へこみに、座った。

背もたれの、擦れたところに、肩を、当てた。

当てて、思った。

ここに、いる。

いるうちに、見る。

見て、言えないところは、言えないまま、置く。

軽くではなく、見て、置く。

エピローグ

公園に、行く。

ベンチに、座る。

板が、三枚。

真ん中が、へこんでいる。

言える。

工場の音も、言える。

両方、言える。

無い物と、ある物を、両方、言える。

両方、言えるようになったのは、七十だ。

七十まで、無い物しか、言えなかった。

ある物は、軽く、置いていた。

軽く置いたものにも、跡は、できていた。

できていたのを、見ていなかった。

見ないうちに、無くなるのを、待っていたような、ものだ。

待たない。

あるうちに、見る。

妻を、見る。

茶碗の持ち方を、見る。

靴の脱ぎ方を、見る。

言えるように、なる。

いるうちに、言えるように、なる。

無くなってから、作り込むのでは、ない。

いるうちに、ふちを、追う。

追いきれなくて、いい。

動くので、追いきれない。

追いきれないのが、ある物だ。

ベンチの、へこみに、座る。

ここに、いる。

ソウルミッション358

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