ふちまで
無いもののほうが、はっきりしていたこと

朗読で聴く
第一章 言える
六十八になった。
夫は、五年前に、七十で、死んだ。
息子が、一人いる。
四十一だ。
隣の市にいて、月に一度、来る。
夫のことは、言える。
茶碗の持ち方。
左手の親指が、ふちに、かかっていた。
咳と咳の、あいだ。
二つ、咳をして、一つ、息を吸って、もう一つ、咳をした。
靴の脱ぎ方。
右を、左のかかとで、押して、脱いだ。
全部、言える。
ふちまで、言える。
言えるようになったのは、死んでからだ。
生きているあいだは、言おうと、思わなかった。
息子のことは、言えない。
息子は、月に一度、来る。
来て、茶碗で、飯を、食べる。
持ち方を、知らない。
靴を、脱ぐ。
脱ぎ方を、知らない。
毎月、見ている。
見ているのに、言えない。
息子の茶碗を、洗ったあと、伏せる。
伏せながら、息子の親指を、思い出そうとして、できない。
五年、いない人のことは、ふちまで言えて、毎月、いる人のことは、言えない。
春に、それに、気づいた。
気づいて、こわくなった。
こわいのは、息子が、いつか、いなくなってから、はっきりするのだと、分かったからだ。
第二章 跡
気づいたのは、台所だった。
夫の茶碗を、洗っていた。
五年、使っていない茶碗だ。
洗いながら、夫の親指を、思った。
ふちの、ここに、かかっていた。
ここだ。
場所まで、言える。
息子の茶碗を、洗った。
先月、使った茶碗だ。
息子の指を、思おうとした。
思えなかった。
どこに、かかっていたか、知らない。
こちらは、手を、止めた。
毎月、向かいに、座って、見ている。
見ているつもりだった。
見ていなかった。
夫のことは、見ていた。
いなくなってから、見ていた。
いなくなった夫を、五年、見て、ふちまで、作った。
いる息子を、見ないで、軽く、置いていた。
軽く置いた物は、ふちが、無い。
息子には、ふちが、無い。
夫には、ある。
無い人に、ふちがあって、いる人に、無い。
反対だと、思う。
反対のまま、五年、いた。
五年、無い人と、暮らしていた。
いる人は、月に一度、来ていた。
来ている人より、無い人のほうが、家の中で、大きかった。
大きい夫と、軽い息子で、五年だった。
第三章 版画
若いころ、版画を、見た。
柔らかい地に、物を押し当てて、剥がして、酸に浸ける版画だ。
押し当てた物は、もう、無い。
跡だけが、紙に、出る。
布の跡。
葉の跡。
紐の跡。
布も葉も紐も、絵の中には、無かった。
無いのに、ふちまで、はっきり、あった。
見せてくれた人が、言った。
跡のほうを、いちばん、作り込む。
ふちまで、追う。
まだある物は、軽く、置く。
置いて、途中で、やめる。
途中で、やめた線は、薄い。
薄いのが、まだある物の印だ。
だから、無い物のほうが、はっきり、見える。
こちらは、そのとき、思った。
変な絵だ。
無い物が、はっきりしていて、ある物が、ぼんやりしている。
六十八で、思い直した。
こちらの中が、その絵だった。
夫は、無い。
無い夫を、五年、作り込んだ。
ふちまで、追った。
息子は、いる。
いる息子を、軽く、置いた。
途中で、やめた。
やめたのは、いるからだ。
いるものは、いつでも、見られる。
見られるので、見ない。
見ないで、軽く、置く。
無いものは、もう、見られない。
見られないので、中で、作る。
作るので、ふちまで、できる。
できたふちを、こちらは、夫だと、思っている。
夫では、ない。
こちらが、作った、跡だ。
跡は、押し当てた物と、同じ形をしている。
同じ形だが、物では、ない。
こちらが持っている夫は、それだ。
第四章 軽く置いた
息子が、来た。
向かいに、座った。
こちらは、茶碗を、見た。
息子の、左手の親指は、ふちに、かかっていない。
茶碗の、横を、持っている。
夫と、違う。
初めて、知った。
四十一年、知らなかった。
靴を、見た。
右を、手で、脱いだ。
かかとで、押さない。
夫と、違う。
初めて、知った。
咳を、しなかった。
するかどうかも、知らない。
知らないことが、山ほど、あった。
毎月、向かいに、座っていて。
こちらは、思った。
息子には、ふちが、あった。
こちらが、追っていなかっただけだ。
追わなかったのは、いるからだ。
いる間は、いつでも、追えると、思っていた。
思っていて、追わなかった。
夫のことも、いる間は、追っていなかった。
茶碗の親指も、咳のあいだも、靴の脱ぎ方も、夫がいる間は、知らなかった。
死んでから、思い出して、作った。
作ったふちが、本物かどうか、確かめる相手が、いない。
いないので、はっきりしている。
はっきりしているのは、確かめられないからだ。
息子のふちは、確かめられる。
確かめられるので、はっきりしない。
動くからだ。
夫のふちは、動かない。
動かないふちだけを、こちらは、はっきりと、呼んでいた。
いる人のふちは、動く。
第五章 追う
息子に、言った。
あんた、茶碗、横を、持つのね。
息子は、言った。
え。
こちらは、言った。
お父さんは、親指が、ふちに、かかってた。
息子は、茶碗を、見た。
見て、言った。
そうだっけ。
こちらは、言った。
そうだった。
あんたのは、今日、初めて、見た。
息子は、言った。
四十一年、見てなかったの。
こちらは、言った。
見てなかった。
息子は、笑った。
笑って、言った。
父さんのことは、はっきり、言うのにね。
こちらは、言った。
いない人は、はっきりする。
いる人は、はっきりしない。
息子は、言った。
どうして。
こちらは、言った。
いる人は、動くから。
息子は、黙った。
黙って、茶碗の、横を、持った。
こちらは、それを、見た。
見て、覚えた。
覚えたが、来月、違うかも、しれない。
違っていい。
違うのが、いる人だ。
いる人は、来月、また、違う持ち方を、するかも、しれない。
夫は、もう、違わない。
違わないので、ふちまで、できている。
できているふちは、動かない。
動かないものだけが、はっきりする。
はっきりしているものは、もう、いない。
いないものを、はっきり、持っている。
持っていて、いい。
持っているものが、跡だと、知っていれば、いい。
いる人は、はっきりさせないで、見る。
エピローグ
息子が、帰った。
茶碗を、洗う。
夫の茶碗と、息子の茶碗を、洗う。
夫の茶碗の親指の場所は、言える。
息子の茶碗の親指の場所も、今日、言える。
横だ。
来月は、違うかも、しれない。
違ったら、また、見る。
いる人のふちは、動く。
動くので、追いきれない。
追いきれないものを、軽く、置いていた。
軽く置いて、無い人のふちを、作り込んでいた。
作り込んだふちは、はっきりしている。
はっきりしているのは、動かないからだ。
動かないのは、いないからだ。
いる人は、はっきりしない。
はっきりしないのが、いる印だ。
こちらは、それを、五年かかって、知った。
知って、息子の茶碗を、洗う。
横を、持っていた。
来月、また、見る。
追いきれなくて、いい。
追いきれない人が、月に一度、来る。
来たら、見る。
見て、軽く、置かない。
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