戻った日
少しずつではなく、段で変わっていたこと

朗読で聴く
第一章 少しずつ、と娘は言う
七十になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
夫は、六年前に、七十二で、死んだ。
娘が、一人いる。
四十三だ。
娘は、二十五で、家を、出た。
出て、九年、来なかった。
電話も、無かった。
理由は、あった。
あったが、もう、いい。
夫が、死んだときも、来なかった。
来ないことに、こちらは、慣れていた。
九年目の冬、娘が、来た。
玄関に、立っていた。
それから、十年、娘は、来ている。
最初の日、娘は、何も、言わなかった。
こちらも、言わなかった。
台所で、二人で、食べた。
月に一度、来る。
春に、娘が、言った。
私、少しずつ、戻ってきたよね。
こちらは、言った。
そうね。
娘は、言った。
急には、戻れなかった。
少しずつ。
こちらは、うなずいた。
うなずいて、思った。
少しずつでは、なかった。
こちらには、一日だった。
一日で、戻った。
その日を、こちらは、覚えている。
冬の、夕方だった。
娘は、覚えていないと、思う。
第二章 一日
九年、娘は、来なかった。
九年のあいだ、こちらは、毎日、同じだった。
朝、起きて、娘の部屋の前を、とおった。
とおって、台所に、行った。
夜、娘の部屋の前を、とおって、寝た。
部屋の戸は、閉めたままだった。
開けなかった。
開けても、閉めても、同じだからだ。
九年、同じだった。
少しずつ、遠くなったのでは、ない。
娘が出た日に、遠くなって、そのまま、九年、いた。
同じ段に、いた。
九年目の冬、玄関に、娘が、立っていた。
前の日は、いなかった。
その日、いた。
あいだが、無い。
一段、上がった。
上がって、それから、十年、同じだ。
月に一度、来る。
十年、同じだ。
こちらには、段が、二つだ。
出た日と、戻った日。
あいだは、平らだった。
娘は、少しずつ、と言う。
娘には、そう見えたのだと、思う。
娘は、九年、動いていた。
遠くの町で、働いて、失って、また、働いて。
少しずつ、こちらに、向いていったのだろう。
娘の中では、なだらかだった。
こちらの中では、段だった。
こちらは、動かなかったからだ。
動かなかったのが、悪いとは、思わない。
娘が出た家で、誰かが、動かないでいる必要が、あった。
動かない者には、段しか、見えない。
第三章 版と空
夫は、若いころ、版画を、刷る仕事を、していた。
銅版を、酸で、食わせる版画だ。
一度、刷ったばかりの紙を、見せてくれた。
空が、四つの濃さで、できていた。
薄い、少し濃い、濃い、いちばん濃い。
あいだが、無い。
こちらは、言った。
空は、こんなふうでは、ない。
夫は、言った。
こんなふうだ。
こちらは、言った。
空は、なだらかよ。
夫は、言った。
見ている者が、動いているからだ。
止まって見れば、段だ。
空を、止まって見た人は、いない。
だから、みんな、なだらかだと、言う。
こちらは、そのとき、分からなかった。
夫は、動かない人だった。
同じ椅子に、四十年、座っていた。
夫には、段が、見えていたのだと、思う。
娘が戻って、分かった。
娘は、動いていた。
動いている者には、なだらかに、見える。
自分の足音で、埋まるからだ。
こちらは、止まっていた。
止まっている者には、段しか、無い。
出た日と、戻った日。
あいだの九年は、平らだ。
平らな九年を、こちらは、待っていたとも、思っていない。
待つのは、なだらかだ。
少しずつ、近づいてくる者を、待つ。
こちらは、近づいてくる者を、知らなかった。
知らないので、待てなかった。
待たないで、同じ段に、いた。
同じ段に、いたので、戻った日が、一日だった。
第四章 反対
娘は、少しずつ、戻ってきたと、思っている。
こちらは、一日で、戻ってきたと、思っている。
どちらも、正しい。
娘は、動いていた。
こちらは、止まっていた。
動いていた者には、なだらか。
止まっていた者には、段。
こちらは、思った。
なだらかなのは、動いた側だ。
段なのは、動かなかった側だ。
こちらは、ずっと、反対だと、思っていた。
動かないでいる者は、なだらかに、待っている。
動いた者が、段を、作る。
そう思っていた。
反対だった。
動いた者には、自分の足の分だけ、なだらかに、見える。
動かない者には、相手の足音が、聞こえない。
聞こえないので、来た日が、いきなりだ。
九年、いなくて、ある日、いる。
段だ。
娘は、九年、少しずつ、こちらへ、歩いていた。
歩いている足音は、こちらに、届かなかった。
届かないので、こちらは、段しか、持っていない。
持っていないことを、責めない。
足音は、歩く側の物だ。
持っていない九年を、娘は、持っている。
娘の九年は、なだらかだ。
こちらの九年は、平らだ。
なだらかと、平らは、違う。
娘は、上っていた。
こちらは、同じ段に、いた。
上ってきた娘が、玄関に、立った。
立った日が、こちらの段だ。
第五章 娘に
娘に、言った。
私には、一日だった。
娘は、聞いた。
何が。
こちらは、言った。
あなたが、戻った日。
前の日まで、いなくて、その日、いた。
娘は、黙った。
こちらは、続けた。
あなたは、少しずつ、戻ったと、言う。
そう見えたのだと、思う。
あなたは、歩いてたから。
私は、歩いてなかった。
娘は、言った。
歩いてたよ。
九年、ずっと。
こちらは、言った。
知らなかった。
足音が、聞こえなかった。
娘は、黙った。
黙って、言った。
聞こえるように、すれば、よかった。
こちらは、言った。
いい。
段でも、いい。
娘は、言った。
段って。
こちらは、言った。
あなたが、出た日と、戻った日。
二つの段。
あいだは、平らだった。
娘は、言った。
平らって、何もなかったってこと。
こちらは、言った。
何もなかった。
同じだった。
でも、悪くなかった。
同じ段に、いただけ。
娘は、少し、泣いた。
泣いて、言った。
なだらかにしたかった。
こちらは、言った。
あなたの側は、なだらかだった。
それで、いい。
私の側は、段だった。
それで、いい。
両方、正しい。
娘は、うなずいた。
うなずいて、台所で、二人で、食べた。
最初の日と、同じだ。
エピローグ
娘が、帰る。
月に一度、来て、帰る。
十年、同じだ。
同じ段に、いる。
娘は、いまも、少しずつ、近づいていると、思っている。
こちらには、十年、同じだ。
同じでいい。
段の上は、平らだ。
平らな上で、月に一度、会う。
娘は、動いている。
動いている者には、なだらかに、見える。
こちらは、動かない。
動かない者には、段しか、見えない。
九年の段と、十年の段。
戻った日が、あいだに、一日。
その一日を、娘は、覚えていない。
少しずつの中に、溶けている。
こちらは、覚えている。
玄関に、立っていた。
前の日は、いなかった。
その日、いた。
一日だ。
その一日で、段が、上がった。
上がった段に、十年、いる。
次の段は、無くていい。
ここで、いい。
夫が、四十年、座っていた椅子に、こちらが、座る。
娘が、月に一度、来る。
来る足音は、いまも、聞こえない。
聞こえなくても、来る。
来た日に、いる。
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