背中
触れていたものだけが残ったこと

朗読で聴く
第一章 遠い人
七十二になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
夫は、二年前に、七十五で、死んだ。
結婚して、四十七年だった。
夫は、無口な人だった。
こちらの顔を見て、話すことが、無かった。
食事のときも、新聞を、見ていた。
こちらが、話すと、うなずいた。
うなずくだけだった。
こちらは、夫の顔を、よく、知らない気が、していた。
四十七年、向かい合って、知らない気が、していた。
遠い人だと、思っていた。
同じ家にいて、遠い。
四十七年、そう思っていた。
こちらは、大事な物を、別に、持っていた。
結婚した年の、写真。
夫が、一度だけ、くれた手紙。
二十五年目の、指輪。
引き出しに、しまってあった。
夫が、遠いので、それを、大事にした。
大事にして、時々、出して、見た。
見ると、夫が、近かった。
近かった気が、した。
夫が、死んだ。
こちらは、引き出しを、開けた。
写真を、見た。
手紙を、読んだ。
指輪を、はめた。
夫が、いなかった。
どれにも、いなかった。
こちらは、思った。
遠い人だったので、何も、残らなかった。
四十七年、遠かった。
遠い人は、写らない。
そう思って、一年、いた。
一年、引き出しを、開けなかった。
開けても、いないからだ。
第二章 背中
去年の冬、寝室で、目が、覚めた。
夜中だった。
背中が、寒かった。
背中だけが、寒かった。
こちらは、寝床の中で、手を、後ろに、回した。
誰も、いない。
いないのは、分かっている。
分かっていて、手が、回った。
四十七年、背中に、夫が、いた。
夫は、右を向いて、寝た。
こちらは、左を向いて、寝た。
背中と、背中が、付いていた。
毎晩だ。
付いていたことを、思ったことが、無い。
思わないほど、付いていた。
寝室の、寒い夜に、初めて、思った。
背中に、夫が、いた。
夫は、いま、背中に、いない。
いないので、背中が、覚えている。
背中が、夫の形を、覚えている。
右を向いた、夫の背中の、丸さ。
冬に、こちらより、少し、温かかったこと。
息で、少し、動いたこと。
背中が、全部、覚えていた。
覚えていることを、こちらは、知らなかった。
背中は、こちらに、言わなかった。
寒くなって、初めて、言った。
引き出しの写真には、夫が、いなかった。
背中には、いた。
こちらは、寒い背中のまま、朝まで、起きていた。
起きて、四十七年を、背中で、数えた。
第三章 密着
夫は、工務店で、図面を、焼く人だった。
青写真だ。
図面を、薬を塗った紙に、重ねて、光に、当てる。
一度、こちらに、言った。
紙に、付いていないと、写らない。
こちらは、聞いた。
どういうこと。
夫は、言った。
浮いていると、ぼやける。
離れていると、無い。
それだけ、言った。
それだけで、また、黙った。
こちらは、それを、四十年、忘れていた。
寒い背中で、思い出した。
夫の言った通りだ。
紙に、付いていた物だけが、写る。
写真は、引き出しに、あった。
紙から、離れていた。
手紙も、指輪も、離れていた。
大事にして、離して、置いていた。
離して置いたので、夫が、写っていない。
背中は、毎晩、付いていた。
付いていたので、写っている。
こちらは、夫を、遠い人だと、思っていた。
顔を見て、話さないからだ。
顔は、離れていた。
声も、少し、浮いていた。
夫の声は、ぼやけて、残っている。
何を言ったかは、ほとんど、無い。
背中は、付いていた。
背中だけが、はっきり、残っている。
遠い人ではなかった。
いちばん、近い人だった。
近すぎて、遠いと、思っていた。
第四章 反対
こちらは、思った。
遠いと感じるのは、少し、離れているからだ。
顔を見て話す人は、少し、離れている。
離れているので、距離が、分かる。
距離が分かるので、近いとか、遠いとか、思う。
背中は、付いていた。
付いていると、距離が、無い。
距離が無いと、近いとも、思わない。
思わないので、遠いと、思った。
顔が、遠かったからだ。
顔は、少し、浮いていた。
浮いている物は、ぼやける。
ぼやけているので、遠く、見えた。
背中は、ぼやけない。
ぼやけないほど、付いていた。
付いていたので、見えなかった。
見えないので、無いと、思った。
無いと思って、引き出しの写真を、大事にした。
写真は、夫を、遠ざけて、置いた物だ。
遠ざけて置いて、近いと、思った。
反対だった。
近いと思っていた物が、遠かった。
遠いと思っていた人が、付いていた。
こちらは、四十七年、反対に、思っていた。
夫は、知っていただろうか。
知っていたと、思う。
紙に、付いていないと、写らない。
あれは、こちらに、言ったのだ。
言って、黙って、背中を、付けていた。
顔で、話さないで、背中で、付いていた。
四十七年、毎晩。
こちらは、その四十七年を、遠いと、呼んでいた。
夫は、呼び方を、直さなかった。
直さないで、付けていた。
第五章 娘に
娘が、来た。
四十四になる。
娘に、言った。
お父さん、遠い人だと、思ってた。
娘は、言った。
うん。
こちらは、言った。
違った。
娘は、聞いた。
何が。
こちらは、言った。
背中が、覚えてる。
娘は、黙った。
こちらは、続けた。
写真には、いない。
手紙にも、いない。
背中に、いる。
娘は、言った。
私も、そう。
こちらは、聞いた。
何が。
娘は、言った。
お父さん、私に、何も、言わなかった。
でも、車で、学校に、送ってくれた。
毎朝。
黙って。
私、お父さんの、運転の、手の置き方、覚えてる。
自分が、運転するとき、同じ、置き方をしてる。
こちらは、黙った。
娘は、言った。
お父さんの言葉は、覚えてない。
手の置き方だけ、覚えてる。
言葉は、浮いてた。
手は、付いてた。
こちらは、言った。
付いてた物だけが、写るのよ。
娘は、聞いた。
何。
こちらは、言った。
お父さんが、言ってた。
紙に、付いていないと、写らない。
娘は、黙った。
黙って、言った。
お父さん、付いてたんだね。
こちらは、言った。
付いてた。
黙って、付いてた。
娘は、うなずいた。
うなずいて、手を、こちらの手に、置いた。
夫の、置き方だった。
エピローグ
夜、寝床に、入る。
左を、向く。
背中が、寒い。
寒い背中が、夫の形を、している。
形は、はっきり、している。
四十七年、付いていた形だ。
引き出しの写真は、しまったままだ。
見ない。
見ても、夫は、いない。
夫は、背中に、いる。
こちらは、夫を、遠い人だと、思っていた。
遠かったのは、写真のほうだった。
大事にして、離して、置いた物が、遠かった。
大事にしないで、毎晩、付いていた物が、近かった。
近すぎて、無いと、思っていた。
夫が死んで、寒くなって、初めて、あったと、知った。
紙に、付いていた物だけが、写る。
夫は、それを、知っていた。
知っていて、顔で、話さなかった。
背中で、付いていた。
こちらは、それを、四十七年、遠いと、呼んだ。
呼び方が、反対だった。
いまは、正しく、呼ぶ。
近い人だった。
背中が、寒い。
寒いのは、付いていた跡だ。
跡を、背中に、持って、眠る。
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