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月に一度

触れていたものだけが残ったこと

月に一度

朗読で聴く

第一章 遠くから

七十一になった。

妻は、去年の秋に、六十八で、死んだ。

娘が、一人いる。

四十二だ。

隣の県に、いる。

こちらは、三十年、家に、いなかった。

仕事で、遠くの町に、いた。

月に一度、帰った。

金曜の夜に、帰って、日曜の昼に、出た。

三十年、そうだった。

娘が、五つのときから、三十五になるまでだ。

こちらは、遠くから、家を、支えていた。

毎月、送った。

週に一度、電話を、した。

娘の学校のこと、妻の体のこと、家のこと。

電話で、聞いた。

聞いて、決めた。

遠くにいても、家のことは、全部、分かっていた。

分かっていると、思っていた。

家に、いなくても、家を、持っていると、思っていた。

遠くの町では、一人で、いた。

一人で、いて、家のことを、考えた。

考えている時間は、家にいる時間より、長かった。

長いので、家に、いるつもりだった。

妻が、死んだ。

葬式のあと、娘と、二人で、家に、いた。

娘が、言った。

お父さん、風呂、先に、入って。

こちらは、言った。

いい。

娘は、言った。

入って。

お父さんが、先だから。

こちらは、入った。

湯が、熱かった。

第二章 風呂の順

風呂から出て、娘に、言った。

熱かった。

娘は、言った。

お父さんが、帰る日は、いつも、熱かった。

こちらは、聞いた。

そうか。

娘は、言った。

覚えてる。

金曜の夜、お父さんが、先に、入る。

次に、お母さん。

私は、最後。

いつも、ぬるくなってた。

こちらは、黙った。

娘は、続けた。

玄関の靴が、いつもと、違う向きだった。

お父さんの靴だけ、外を、向いてた。

日曜に、すぐ、出られるように。

こちらは、黙った。

娘は、言った。

それが、お父さんだった。

熱い風呂と、外を向いた靴。

こちらは、聞いた。

ほかには。

娘は、少し、考えた。

考えて、言った。

ほかには、無い。

こちらは、聞いた。

電話は。

娘は、言った。

してたね。

何を、話したか、覚えてない。

こちらは、聞いた。

毎月、送ってたのは。

娘は、言った。

知らなかった。

お母さんが、言わなかった。

こちらは、黙った。

三十年、支えていたつもりの物が、娘には、無い。

残っているのは、月に一度の、二晩の風呂と、靴だ。

妻には、写っていただろう。

毎月の物は、妻の手に、付いていた。

電話も、妻が、受けた。

妻の紙には、はっきり、写っていた。

妻が、死んだ。

妻に写った分は、妻と、一緒に、無くなった。

残っているのは、娘の紙だ。

娘の紙には、二晩しか、付いていない。

第三章 青写真

若いころ、会社で、青写真を、焼いた。

図面を、薬を塗った紙に、重ねて、日に当てる。

図面が、紙に、ぴったり、付いていれば、線が、はっきり、出る。

少し、浮くと、線が、太く、ぼやける。

離れると、写らない。

先輩が、言った。

付けろ。

浮かすな。

浮いたところは、使い物にならない。

浮いた図面を、何枚も、もう一度、焼いた。

もう一度、焼けるのは、紙が、まだ、あるからだ。

こちらは、それを、四十年、忘れていた。

娘の話を、聞いて、思い出した。

娘は、紙だ。

こちらは、紙に、月に一度、付いた。

二晩、付いた。

付いたところは、はっきり、写った。

熱い風呂。

外を向いた靴。

電話は、浮いていた。

声だけが、遠くから、来た。

浮いたところは、ぼやける。

したことは、覚えているが、中身が、無い。

毎月、送ったものは、離れていた。

紙に、届いていない。

妻が、受け取って、妻が、使った。

娘の紙には、付いていない。

付いていないので、写っていない。

こちらは、遠くから、家を、支えていると、思っていた。

支えていたのかも、しれない。

支えていたことは、写らない。

写るのは、付いていた二晩だけだ。

第四章 三十年

三十年のうち、家にいたのは、月に二晩だ。

一年で、二十四晩。

三十年で、七百二十晩。

二年分だ。

三十年のうち、二年、付いていた。

二十八年、離れていた。

離れていた二十八年は、写っていない。

その二十八年に、こちらは、いちばん、働いた。

働いて、送って、電話をした。

全部、家のためだった。

家のためだったことは、紙に、付いていない。

娘は、それを、知らないのでは、ない。

知っていても、写らない。

写らないので、娘の中に、無い。

娘の中にあるのは、熱い湯と、靴の向きだ。

こちらは、それを、大事にしたことが、無い。

風呂は、先に入っただけだ。

靴は、出やすいように、向けただけだ。

娘のためでは、ない。

娘のためでない物だけが、娘に、写った。

娘のためだった物は、写らなかった。

紙に、付いていたかどうかだ。

ためかどうかでは、ない。

こちらは、それを、七十一で、知った。

知って、思った。

付いていれば、よかった。

付けなかった。

付けなかったのは、遠くにいたからだ。

遠くにいたのは、家のためだった。

家のためが、家に、写らなかった。

写ったのは、家のためでない、風呂だった。

風呂に、こちらが、いる。

娘は、それを、三十年、持っていた。

持っていて、妻が死んだ日に、出した。

お父さん、風呂、先に、入って。

あれは、娘が持っていた、こちらの形だ。

第五章 付く

娘が、帰る日、玄関で、言った。

お父さん、来月、うちに、来て。

こちらは、言った。

いい。

娘は、言った。

来て。

風呂、先に、入って。

こちらは、黙った。

娘は、言った。

うちの子に、見せたい。

じいちゃんが、先に、入るとこ。

こちらは、言った。

熱いぞ。

娘は、言った。

知ってる。

こちらは、行った。

娘の家の風呂に、先に、入った。

湯を、熱くした。

出ると、孫が、いた。

孫が、言った。

熱い。

こちらは、言った。

熱いのが、いい。

孫は、入った。

入って、熱い、と言った。

娘が、笑っていた。

笑っている娘の紙にも、いま、付いている。

こちらは、思った。

いま、紙に、付いている。

付いているところは、写る。

孫に、何か、残るとしたら、これだ。

熱い湯だ。

仕送りでは、ない。

電話でも、ない。

風呂だ。

三十年、遠くから、支えた。

支えた物は、写らなかった。

写らなかった三十年を、悔やんでも、写らない。

いま、付く。

付いたところだけが、写る。

遠くから、支えるのは、もう、やめる。

近くで、風呂に、入る。

エピローグ

娘の家の玄関に、靴を、脱ぐ。

外を、向けない。

向けなくて、いい。

明日、出ない。

風呂に、先に、入る。

湯を、熱くする。

孫が、あとから、入って、熱い、と言う。

それが、写る。

三十年、遠くにいた。

遠くから、支えた。

支えたことは、紙に、付いていない。

付いていない物は、写らない。

写っていたのは、月に一度の、二晩だった。

二晩の、風呂と、靴だった。

こちらが、大事にしなかった物だ。

大事にした物は、離れていた。

離れていたので、写らなかった。

こちらは、それを、妻が死んで、娘に、聞いて、知った。

知って、いま、付いている。

付いているのは、風呂だ。

風呂でいい。

風呂しか、無い。

無いのではない。

風呂が、写っていた。

写っていた物から、始める。

湯を、熱くする。

ソウルミッション358

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