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触れていた物

触れていたものだけが残ったこと

触れていた物

朗読で聴く

第一章 大事な物

六十三になった。

母は、去年の冬に、八十七で、死んだ。

母の家を、春に、片付けた。

母が、大事にしていた物は、分かっていた。

箪笥の上の、写真。

引き出しの、手紙。

着物。

母は、それを、大事にしていた。

触れさせなかった。

こちらが、子どものころ、写真に手を伸ばすと、母は、手を、払った。

大事な物だから。

そう言った。

こちらは、手を、引っ込めた。

引っ込めて、台所に、行った。

台所には、触れていい物しか、無かった。

片付けの日、写真を、下ろした。

手紙を、出した。

着物を、広げた。

見た。

何も、思い出せなかった。

写真の中の母は、知らない人だった。

手紙の字は、母の字だと、分かった。

分かっただけだ。

着物は、たたんで、箱に入れた。

大事な物を、三つ、持って帰った。

持って帰って、棚の上に、置いた。

置いて、見ない。

見ても、何も、無い。

母は、そこに、いない。

いないので、こちらは、母を、無くしたと、思った。

大事な物を、三つ、持って帰って、母を、無くしたと、思った。

第二章 布巾

夏になった。

自分の台所で、布巾を、たたんだ。

たたんで、手が、止まった。

四つに折って、端を、内に、入れる。

母の、たたみ方だ。

こちらは、それを、教わっていない。

母が、たたんでいるのを、見ていた。

見て、横で、同じように、たたんだ。

五十年、そうしている。

茶碗を、置く場所。

右の、奥。

母の台所と、同じ場所だ。

蛇口を、閉める順。

水を、先に、閉める。

同じだ。

こちらは、台所に、立って、思った。

母が、いる。

棚の上の、写真には、いない。

布巾に、いる。

茶碗の場所に、いる。

蛇口の順に、いる。

写真を、下ろしたときには、いなかった母が、布巾を、たたんだら、いた。

どうでもいい物だ。

母が、大事にしていない物だ。

大事にしないので、毎日、触れていた。

毎日、触れていた物に、母が、いる。

大事にしていた物には、いない。

大事にして、触れさせなかった物には、いない。

第三章 葉の形

小学校のころ、青写真を、作った。

薬を塗った紙に、葉を、置く。

日に当てて、水で、洗う。

葉の形が、白く、残る。

葉は、紙に、ぴったり、付いていた。

付いていたところは、形が、はっきり、出た。

葉の筋まで、出た。

花も、置いた。

花は、茎が、太い。

紙から、少し、浮いた。

浮いたところは、ぼやけた。

形は、あるが、ふちが、無い。

先生が、言った。

紙に付いていないと、ぼやける。

離れていると、写らない。

こちらは、その紙を、まだ、持っている。

葉は、はっきり、している。

花は、ぼやけている。

花を、押さえていた、こちらの手は、写っていない。

手は、紙から、離れていた。

母の写真は、棚の上に、あった。

紙から、離れていた。

離れていたので、写っていない。

母の声は、ぼやけて、残っている。

何を言ったかは、覚えていない。

声の高さだけ、覚えている。

声は、少し、浮いていた。

浮いていた物は、ふちが、無い。

ふちの無い物は、思い出せても、持てない。

布巾は、毎日、手に、あった。

手は、紙だ。

こちらの手が、紙だ。

紙に、毎日、付いていた物が、写った。

紙に、付いていた物だけが、写る。

母が、大事にした物は、離して、置いてあった。

離して置いた物は、写らない。

母は、それを、知らなかった。

こちらも、知らなかった。

知らないで、母は、大事な物を、離して、置いた。

知らないで、こちらは、大事な物を、持って帰った。

持って帰った物には、母が、いなかった。

いないので、こちらは、母を、無くしたと、思った。

無くしていなかった。

写っている場所を、見ていなかっただけだ。

第四章 写っている物

残っている母を、数えた。

布巾のたたみ方。

茶碗の場所。

蛇口の順。

米を、とぐときの、手の回し方。

洗った皿を、伏せる向き。

全部、台所だ。

全部、母が、大事だと、言わなかった物だ。

言わないので、こちらは、勝手に、触れた。

勝手に触れて、勝手に、覚えた。

覚えたと、思っていない。

手が、そうする。

母は、大事な物を、こちらに、残そうとした。

写真。

手紙。

着物。

残そうとして、離して、置いた。

離して置いたので、こちらには、写らなかった。

残そうとしなかった物が、残った。

残そうとする物は、いつも、少し、遠い。

布巾は、残そうとして、たたんでいない。

たたんでいただけだ。

たたんでいる横に、こちらが、いた。

いて、紙に、付いていた。

付いていたので、写った。

母が、残そうとした物と、残った物は、違う。

残そうとすると、離して、置く。

大事にするとは、離して、置くことだ。

離して置くと、写らない。

写るのは、毎日、雑に、触れていた物だ。

母は、雑に、布巾を、たたんだ。

雑にたたんだ形が、こちらの手に、写った。

こちらの手は、それを、五十年、たたんでいる。

五十年、たたんで、母だと、思わなかった。

母が、死んで、初めて、母だと、思った。

死ぬまで、母は、母の台所に、いた。

いたので、こちらの手の中の母を、見なかった。

第五章 写真を、しまう

棚の上の写真を、下ろした。

手紙も、下ろした。

着物も、出した。

見た。

やはり、何も、無い。

無いのは、こちらが、悪いのでは、ない。

母が、悪いのでも、ない。

離れていた物は、写らない。

それだけだ。

写真を、箱に、しまった。

しまって、台所に、立った。

布巾を、たたんだ。

四つに折って、端を、内に、入れる。

母だ。

ここに、いる。

こちらは、母の写真を、見ない。

見なくても、母は、毎日、手の中に、いる。

毎日、雑に、触れている。

雑に触れている物にしか、人は、写らない。

こちらにも、娘が、いる。

娘は、こちらの台所で、布巾を、たたんでいた。

四つに折って、端を、内に、入れていた。

教えていない。

教えようと、思ったことも、無い。

娘は、横で、見ていた。

見て、紙に、付いていた。

こちらが、娘に、残そうとしている物は、別に、ある。

別にあるが、それは、写らないだろう。

写るのは、布巾だ。

それでいい。

布巾でいい。

布巾に、こちらが、いる。

娘が、こちらを、無くしたと、思う日に、娘は、布巾を、たたむ。

たたんで、手が、止まる。

止まって、分かる。

エピローグ

台所に、立つ。

布巾を、たたむ。

母の、たたみ方で、たたむ。

母は、これを、残すつもりが、なかった。

なかったので、残った。

残すつもりの物は、離して、置いた。

置いたので、残らなかった。

こちらは、棚の上の写真を、見ない。

見なくても、母は、いる。

手の中に、いる。

紙に、付いていた物だけが、写る。

付いていたのは、毎日の、どうでもいい物だ。

どうでもいいので、離さなかった。

離さなかったので、写った。

母は、写真を、離して、置いた。

大事だからだ。

大事なので、写らなかった。

こちらは、それを、母が死んで、知った。

知って、布巾を、たたむ。

娘が、横で、見ている。

見て、同じに、たたむ。

こちらは、何も、言わない。

言わないで、たたむ。

紙に、付いている。

ソウルミッション358

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