湖の夏
触らなかったところが明るかったこと

朗読で聴く
第一章 ピアノ
七十一になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
夫は、五年前に、七十三で、死んだ。
娘が、一人いる。
四十五だ。
西の町で、音楽を、教えている。
娘は、六つから、ピアノを、習った。
習わせたのは、こちらだ。
毎日、練習を、横で、聞いた。
間違えると、止めた。
止めて、直した。
発表会には、全部、行った。
先生を、選んだ。
曲を、選んだ。
練習の時間を、決めた。
十二年、そうした。
娘は、音楽の道に、進んだ。
進んだのは、こちらが、手を、入れたからだと、思っていた。
毎日、横にいて、直したからだと。
娘の明るいところは、ピアノだ。
ピアノは、こちらが、置いたものだ。
だから、娘の明るさは、こちらが、置いたものだと、思っていた。
四十年、そう思っていた。
誇りだった。
娘が、教える側になっても、思っていた。
あの子の明るさは、こちらの手だ、と。
第二章 湖
娘が、十のとき、夏に、ひと月、湖の家に、行かせた。
夫の姉の、家だ。
こちらは、行かなかった。
行けなかった。
その夏、こちらは、母の看病で、東の町に、いた。
娘は、一人で、湖に、行った。
行く前の晩、こちらは、練習を、休まないように、と言った。
ピアノが、無いのに、言った。
ピアノは、無かった。
こちらも、いなかった。
ひと月、何も、置かれなかった。
戻ってきた娘は、日に焼けて、何も、言わなかった。
次の日から、また、ピアノだった。
こちらは、その夏のことを、忘れていた。
忘れていたというより、数に、入れていなかった。
ピアノの無い夏は、何も、していない夏だった。
何もしていない時間は、こちらには、無い時間だった。
去年の春、娘が、帰ってきた。
居間で、ピアノの話に、なった。
こちらは、言った。
あなたの音楽は、私が、置いたものね。
娘は、少し、黙った。
黙って、言った。
お母さん、私が、音楽を、好きになったのは、湖の夏だよ。
こちらは、聞いた。
湖。
娘は、言った。
十のとき。
ピアノも、お母さんも、無かったひと月。
おばさんは、何も、言わなかった。
毎日、湖で、水の音を、聞いてた。
あのひと月で、音を、好きになった。
こちらは、黙った。
娘は、続けた。
ピアノは、お母さんのものだった。
直されるものだった。
好きになったのは、湖。
誰も、何も、しなかったひと月。
こちらは、動けなかった。
第三章 紙の白
若いころ、水彩を、少し、やった。
薄い絵の具を、水で、のばして、置く。
先生が、言った。
明るいところは、塗らない。
紙の白を、残す。
置かないところが、光になる。
こちらは、それを、ずっと、逆に、覚えていた。
置いたところが、明るくなると。
娘に、そうした。
毎日、置いた。
直した。
置けば、明るくなると、思った。
置いたところは、こちらの色に、なった。
直された色だ。
娘には、それが、濁って、見えていた。
ひと月だけ、置かなかった。
置かなかったのは、こちらの、考えではない。
母の看病で、行けなかっただけだ。
行けなくて、白が、残った。
残った白で、娘は、音を、好きになった。
好きになった娘が、ピアノに、戻った。
戻ったので、こちらは、ピアノが、明るさだと、思った。
違った。
明るさは、湖だった。
湖は、こちらが、いなかった場所だ。
いなかったところが、明るかった。
いたところは、濁っていた。
反対だった。
こちらは、四十年、反対に、思っていた。
自分が、置いたところを、娘の光だと、思っていた。
娘の光は、こちらの手の無いところに、あった。
第四章 直す
娘に、聞いた。
ピアノは、つらかったの。
娘は、言った。
つらくは、なかった。
でも、私のじゃ、なかった。
こちらは、聞いた。
誰の。
娘は、言った。
お母さんの。
お母さんが、直した音だった。
こちらは、黙った。
娘は、続けた。
いま、私が、教えてる子に、直さないようにしてる。
直したくなる。
でも、直すと、私の色になる。
子どもの白が、消える。
こちらは、聞いた。
それで、どうするの。
娘は、言った。
黙って、聞く。
湖の、おばさんみたいに。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
娘は、知っている。
置かないことを、知っている。
教えたのは、こちらではない。
湖だ。
こちらは、置くことしか、教えなかった。
置くことしか、知らなかった。
置かないでいると、何かを、しそこねている気がした。
しそこねるのが、怖かった。
怖くて、毎日、置いた。
置くたびに、娘の白が、減っていた。
減っていることを、こちらは、見なかった。
娘は、置かないことを、ひと月で、覚えた。
ひと月で、覚えたものを、四十五になっても、持っている。
こちらが、十二年、置いたものより、ひと月の白のほうが、残っていた。
残って、娘の教え方に、なっていた。
第五章 置いたつもり
娘が、帰る前の晩、こちらは、言った。
あなたの明るさは、私が、置いたと、思ってた。
娘は、言った。
知ってる。
こちらは、言った。
置いてなかった。
娘は、言った。
置いてたよ。
ピアノは、置いてた。
こちらは、聞いた。
でも、明るくなかった。
娘は、少し、考えた。
考えて、言った。
明るくは、なかった。
でも、ピアノが、無かったら、湖の音を、聞き分けられなかったと、思う。
こちらは、黙った。
娘は、続けた。
置いたところは、濁った。
でも、濁ったところが、白を、見せた。
こちらは、聞いた。
どういうこと。
娘は、言った。
水彩と、同じ。
周りに、色が、あるから、白が、明るい。
全部、白だったら、明るくない。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
娘は、こちらを、赦している。
赦しているのでは、ない。
絵の中に、こちらの色を、置いている。
濁った色として、置いている。
置いた色が、白を、明るく見せた。
それだけのことだ。
それだけのことが、こちらには、大きい。
こちらの手は、光ではなかった。
光の周りの、濁りだった。
濁りが無ければ、光は、光に、見えない。
娘は、そう、言った。
言ってくれた。
エピローグ
居間に、ピアノが、ある。
娘が、弾いた、ピアノだ。
こちらが、横で、直した、ピアノだ。
誰も、弾かない。
弾かないピアノを、見る。
こちらの手が、十二年、置いた場所だ。
濁っている。
濁っていることを、七十一で、知った。
娘の光は、湖に、ある。
こちらが、いなかったひと月に、ある。
いなかったことが、こちらの、いちばんの仕事だった。
仕事だと、思っていなかった。
行けなかっただけだ。
行けなかったところに、光が、残った。
置いたところには、濁りが、残った。
濁りは、光の周りに、ある。
周りにあることで、光を、光にしている。
それが、こちらの、場所だった。
光では、ない。
光の周りだ。
周りでいい。
周りでいいと、七十一で、思えた。
娘が、教えている子どもたちに、白が、残っている。
娘が、残している。
残し方を、湖で、覚えた。
こちらが、いなかった湖で。
ピアノの蓋を、あけない。
あけないで、見る。
見て、思う。
置かなかったひと月が、置いた十二年より、明るかった。
それで、いい。
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