下の息子
触らなかったところが明るかったこと

朗読で聴く
第一章 上と下
七十五になった。
妻は、六年前に、六十九で、死んだ。
息子が、二人いる。
上が、四十九。
下が、四十四。
こちらは、町で、小さな鉄工所を、やっていた。
上の息子に、継がせるつもりだった。
つもりだったので、上には、全部、教えた。
火の入れ方、鉄の見方、客への口のきき方。
朝から晩まで、横に、置いた。
置いて、教えた。
教えるというより、手を、入れた。
こちらのやり方に、上の息子を、合わせた。
合わない動きは、その場で、直した。
三十年、直した。
下の息子には、しなかった。
下は、鉄工所を、継がない。
継がないので、教えなかった。
教えないというより、放っておいた。
放っておいて、好きにさせた。
好きにして、下は、隣の県の、学校に行き、役場に、勤めた。
こちらは、下のことを、あまり、知らない。
知らないまま、四十四年、来た。
上には、全部、置いた。
下には、何も、置かなかった。
置いたほうが、こちらの息子だと、思っていた。
置かなかったほうは、妻の息子だと、思っていた。
第二章 いま
鉄工所は、七年前に、閉めた。
上の息子は、継がなかった。
閉める前の年に、東京の会社に、移った。
こちらのやり方では、食えないと、言った。
言って、出ていった。
それから、上とは、年に、一度、会うだけだ。
会っても、話が、続かない。
上は、こちらの前で、黙る。
黙るのは、こちらが、直すからだ。
直さなくても、直すと、思って、黙る。
三十年、直した跡が、上の息子の中に、ある。
跡があるので、こちらの前で、動けない。
下の息子は、月に、一度、来る。
来て、台所で、飯を、作る。
こちらは、横で、見ている。
直さない。
直すものが、無い。
こちらが、教えたことが、一つも、無いからだ。
下は、好きに、動く。
好きに動いて、こちらに、話す。
役場のこと、子どものこと、何でも、話す。
こちらは、聞く。
聞くだけだ。
聞くだけで、下は、また来る。
上は、来ない。
来ても、黙る。
妻が、生きていたころ、言った。
あなた、下の子のこと、見てないでしょう。
上の子ばかり、見てる。
見られていないのは、下の子のほうが、楽かもしれないけど。
妻は、そう言って、笑った。
笑った意味を、こちらは、聞かなかった。
こちらは、言った。
見ている。
見ていなかった。
見ていなかったので、下は、明るい。
第三章 置かない
若いころ、水彩の絵を、見た。
薄い絵の具を、水で、のばして、置いた絵だ。
絵の中で、いちばん明るいところは、何も、置いていなかった。
紙の白が、そのまま、残っていた。
絵を描いた人が、言った。
光は、塗れない。
塗らないところが、光になる。
こちらは、そのとき、分からなかった。
何かを、明るくするには、何かを、するのだと、思っていた。
鉄工所は、そうだった。
火を入れ、打ち、削る。
するほど、形になる。
上の息子に、そうした。
するほど、形になると、思った。
形には、なった。
こちらの形に、なった。
なって、濁った。
上の息子は、こちらの色で、濁った。
濁って、動けなくなった。
下の息子には、何も、しなかった。
しなかったところが、白のまま、残った。
残った白が、光になった。
下は、こちらの前で、明るい。
明るいのは、こちらが、何も、置かなかったからだ。
置かなかったのは、こちらの、手柄ではない。
継がないから、放っておいただけだ。
放っておいたところだけが、いま、明るい。
手を入れたところは、濁って、黙っている。
反対だと、思っていた。
手を入れたところが、明るくなると、思っていた。
第四章 跡
上の息子に、電話を、した。
上は、出た。
出て、黙った。
こちらは、言った。
おまえ、こっちで、話さないな。
上は、言った。
話すと、直されるから。
こちらは、黙った。
上は、続けた。
もう、直さないのは、分かってる。
でも、体が、覚えてる。
親父の前で、口を、あけると、直される。
三十年、そうだった。
こちらは、言った。
悪かった。
上は、言った。
悪くない。
教えてくれた。
でも、俺の中に、親父の跡しか、無い。
俺の色が、どこにも、無い。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
その通りだ。
全部に、置いた。
置いて、上の息子の白を、全部、消した。
消したのは、教えるためだった。
教えることと、消すことは、こちらからは、同じ形をしていた。
上は、言った。
弟は、いいよな。
こちらは、聞いた。
何が。
上は、言った。
親父に、触られてない。
こちらは、黙った。
電話が、切れた。
切れてから、思った。
触られていないことが、下の明るさだった。
触ったことが、上の濁りだった。
こちらは、触ることを、愛だと、思っていた。
触らないことを、放っておくことだと、思っていた。
反対だった。
少なくとも、二人の息子の上では、反対だった。
第五章 白
下の息子が、来た。
台所で、飯を、作っている。
こちらは、横で、見ている。
見ていて、手が、動きそうになった。
鍋の火が、強い。
直したい。
直さない。
直さないでいると、下が、言った。
火、強い。
自分で、弱めた。
こちらは、言った。
そうだな。
それだけだ。
それだけで、下は、笑った。
笑って、話を、続けた。
こちらは、聞いた。
聞きながら、思った。
これが、白だ。
こちらが、置かなかった白だ。
置かなかったので、下は、自分で、火を、弱める。
上は、こちらが、弱めていた。
三十年、弱めていた。
弱める手が、無くなっても、上は、自分で、弱められない。
こちらの手を、待つ。
待って、黙る。
下は、待たない。
待たないので、明るい。
飯が、できた。
二人で、食べた。
下が、言った。
兄貴、元気。
こちらは、言った。
黙ってる。
下は、言った。
親父の前だと、そうだよね。
こちらは、聞いた。
おまえは、なぜ、黙らない。
下は、少し、考えた。
考えて、言った。
黙る理由が、無いから。
こちらは、黙った。
黙る理由を、上には、三十年かけて、作った。
下には、作らなかった。
作らなかったことが、いちばん、良いことだった。
エピローグ
一人で、台所に、いる。
下の息子が、作った飯の、残りがある。
こちらは、鍋の火を、見る。
強い。
弱めない。
弱めるのは、こちらの、癖だ。
癖で、上の息子を、濁らせた。
濁らせて、動けなくした。
いまさら、白には、戻らない。
置いた色は、消えない。
水彩は、そうだ。
置いたら、終わりだ。
置かなかったところだけが、白い。
白いところは、こちらが、作っていない。
作っていないところが、明るい。
これを、七十五で、知った。
知って、鍋の火を、そのままにする。
そのままにして、上の息子に、電話を、する。
電話で、直さない。
聞くだけにする。
聞くだけで、上の中の、こちらの跡が、消えるわけでは、ない。
消えない。
消えないが、これ以上、置かない。
置かないところを、いまから、一つ、作る。
三十年、遅い。
遅くても、作る。
白は、あとからでも、残せるのかを、知らない。
知らないが、置かない。
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