娘の部屋
触らなかったところが明るかったこと

朗読で聴く
第一章 全部の部屋
六十八になった。
夫は、三年前に、七十二で、死んだ。
家は、四十年、こちらが、整えてきた。
毎朝、全部の部屋に、入った。
窓をあけ、床を拭き、物の置き場所を、直した。
台所、居間、寝室、廊下、玄関。
全部に、手を、入れた。
手を入れるのが、こちらの、やり方だった。
やり方というより、そうしないと、落ち着かなかった。
落ち着かないので、四十年、毎朝、した。
娘が、一人いる。
四十二だ。
東京に、いる。
娘の部屋が、二階に、ある。
娘が、十五のとき、こちらは、その部屋に、入らなくなった。
娘が、言ったからだ。
入らないで。
それだけだった。
それだけを、聞いて、入らなくなった。
二十七年、入っていない。
娘が、十八で、家を出てからも、入らなかった。
夫が、入ろうとしたことが、あった。
こちらが、止めた。
止めた理由を、夫には、言わなかった。
言えば、締め出されたことを、言うことになる。
夫は、何も聞かずに、うなずいた。
掃除も、しなかった。
窓も、あけなかった。
あの部屋だけが、手を入れなかった部屋だ。
家の中で、一つだけだ。
その部屋の戸の前を、毎朝、通った。
通って、入らなかった。
入らないのが、その部屋への、やり方になった。
第二章 明るい
去年の冬、娘が、帰ってきた。
二晩、泊まった。
二階の、自分の部屋に、寝た。
二十七年、こちらが、入らなかった部屋だ。
朝、娘が、降りてきて、言った。
あの部屋、そのままだね。
こちらは、言った。
入ってないから。
娘は、少し、黙った。
黙って、言った。
あの部屋だけが、私の家だった。
こちらは、聞いた。
どういうこと。
娘は、言った。
ほかの部屋は、お母さんが、全部、決めてた。
どこに何を置くか、いつ窓をあけるか。
私が、動かすと、次の朝には、戻ってた。
こちらは、黙った。
娘は、続けた。
あの部屋だけ、戻らなかった。
だから、あそこだけ、明るかった。
こちらは、聞いた。
明るい。
娘は、言った。
うん。
家で、いちばん、明るい場所だった。
お母さんが、入らなくなってから。
こちらは、黙った。
娘は、コーヒーを、飲んだ。
飲んで、言った。
いまも、あの部屋に、入ると、息が、できる。
こちらは、聞いた。
ほかの部屋は。
娘は、言った。
お母さんの、匂いがする。
悪い匂いじゃ、ない。
でも、私のじゃ、ない。
娘は、二階に、上がった。
こちらは、台所に、立っていた。
立って、思った。
明るい。
こちらが、手を、入れなかった部屋が、明るかった。
手を入れた部屋は、明るいと、言われなかった。
四十年、毎朝、手を入れた部屋は。
第三章 紙の白
若いころ、水彩を、習った。
薄い絵の具を、水で、のばして、置く。
置いたところは、色が、つく。
薄くても、つく。
先生が、言った。
明るいところは、塗らない。
紙の白を、残す。
白い絵の具を、置くのではない。
何も、置かないところが、光になる。
こちらは、それが、できなかった。
全部に、置いた。
置かないと、落ち着かなかった。
置いて、絵が、濁った。
どこも、明るくなかった。
先生は、言った。
置きすぎです。
こちらは、置かないことが、できなかった。
水彩は、やめた。
家では、同じことを、四十年、していた。
全部の部屋に、手を、置いた。
置いたところは、こちらの色になった。
薄くても、なった。
なって、濁った。
娘には、濁って、見えていた。
一つだけ、置かなかった部屋があった。
置かなかったのは、こちらの、やり方ではない。
娘が、入らないで、と言ったからだ。
言われて、置かなかった。
置かなかったところが、白のまま、残った。
残った白が、光になった。
娘は、それを、明るいと、言った。
こちらは、そこに、何も、していない。
していないことが、光を、作った。
手を入れたところは、全部、濁っていた。
四十年ぶん、濁っていた。
第四章 入らないで
娘が、十五で、入らないで、と言ったとき、こちらは、傷ついた。
傷ついて、入らなかった。
入らないのは、こちらの、負けだと、思っていた。
娘に、締め出されたと、思っていた。
二十七年、そう思っていた。
違った。
娘は、一つだけ、白を、残そうとした。
家じゅうが、こちらの色だった。
娘は、色の無い場所を、一つ、欲しかった。
欲しかったので、言った。
入らないで。
こちらは、それを、締め出しだと、思った。
締め出しではなかった。
紙の白を、守ろうとしただけだ。
こちらが、置きすぎるからだ。
置きすぎる人の家で、置かれない場所を、作ろうとした。
作れたのは、娘が、言ったからだ。
言わなければ、こちらは、あの部屋にも、置いていた。
置いて、濁らせていた。
娘は、十五で、それを、知っていた。
こちらは、六十八で、知った。
知って、傷が、消えた。
二十七年の傷が、朝の一言で、消えた。
傷だと思っていたものは、娘が、白を、残した跡だった。
跡が、いちばん、明るかった。
第五章 置かない
娘が、帰る朝、こちらは、二階に、上がった。
娘の部屋の、戸の前に、立った。
立って、入らなかった。
娘が、後ろから、言った。
入っていいよ。
こちらは、言った。
入らない。
娘は、聞いた。
どうして。
こちらは、言った。
入ると、置いてしまうから。
娘は、笑った。
笑って、言った。
そうだね。
こちらは、言った。
ここは、あなたが、白を、残したところだ。
娘は、黙った。
黙って、言った。
お母さん、水彩、やってたよね。
こちらは、言った。
置きすぎて、やめた。
娘は、言った。
この部屋は、置かなかったね。
こちらは、言った。
あなたが、言ったから。
娘は、言った。
言って、よかった。
こちらは、戸に、手を、置いた。
置いて、あけなかった。
あけないで、降りた。
降りて、娘を、送った。
送ってから、家じゅうを、見た。
全部、こちらの色だ。
四十年、置いた色だ。
濁っている。
濁っていることを、初めて、見た。
見えたのは、白い部屋が、一つ、あるからだ。
白が無ければ、濁りは、見えない。
娘が、残した白で、こちらの濁りが、見えた。
エピローグ
居間に、座っている。
二階に、白い部屋が、ある。
入らない。
入らないのは、もう、締め出されたからでは、ない。
置かないためだ。
置かない場所が、一つ、要る。
要ることを、娘が、十五で、知っていた。
こちらは、六十八で、知った。
水彩の先生が、言った。
明るいところは、塗らない。
塗らないことが、いちばん、難しい。
難しくて、やめた。
やめたのに、家で、同じことを、していた。
全部に、置いていた。
置いて、濁らせていた。
一つだけ、置かなかった。
置かなかったのは、こちらの、力ではない。
娘の一言だ。
一言が、白を、守った。
守られた白が、家で、いちばん、明るい。
明るいところに、こちらの手は、無い。
無いから、明るい。
それを、四十年、知らなかった。
知って、いま、居間の物を、動かさない。
動かしたい。
動かさない。
動かさないで、見ている。
見ていると、居間が、少しだけ、明るい。
置かないことを、六十八で、始めている。
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