父の一枚
同じ刷りを渡していたこと

朗読で聴く
第一章 まあ、いい
七十四になった。
父は、二十年前に、八十一で、死んだ。
父には、口癖が、あった。
まあ、いい。
それだけだ。
こちらが、何かを、しくじると、父は、言った。
まあ、いい。
叱らなかった。
叱るかわりに、それを、言った。
七つのとき、茶碗を、割った。
まあ、いい。
十五のとき、試験に、落ちた。
まあ、いい。
二十三のとき、勤めを、一年で、辞めた。
まあ、いい。
三十のとき、結婚を、一度、やめた。
まあ、いい。
こちらは、それで、生きてきた。
しくじるたびに、父の声が、した。
まあ、いい。
父が、死んでからも、した。
した声で、次に、進んだ。
七十四まで、その声で、来た。
その声は、こちらのものだと、思っていた。
父が、こちらに、くれたものだと、思っていた。
こちらのために、父が、言った言葉だと。
うたがったことは、無い。
六十七年、疑わなかった。
第二章 法事
春に、父の、二十年の、法事を、した。
父の、勤め先の人が、一人、来た。
九十に、近い。
父の、下で、働いていた人だ。
その人が、こちらに、言った。
お父さんには、よく、言われました。
こちらは、聞いた。
何を。
その人は、言った。
まあ、いい、って。
こちらは、黙った。
その人は、続けた。
私が、失敗すると、いつも、それでした。
まあ、いい。
あれで、辞めずに、済んだ。
こちらは、黙った。
黙っていると、隣の家の人が、言った。
うちの、亡くなった主人も、言ってました。
あの人は、まあ、いい、が、口癖だったって。
町内の、何かで、もめると、まあ、いい、って。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
誰にでも、言っていた。
こちらにだけでは、なかった。
勤め先の人にも、隣の人にも、言っていた。
同じ言葉を、同じ言い方で。
こちらの、まあ、いい、は、何百枚のうちの、一枚だった。
一枚だと、知った。
知って、少し、がっかりした。
七十四で、がっかりした。
こちらのために、彫られた言葉だと、思っていた。
思っていたものが、誰にでも、渡されていた。
法事が、終わって、家に、帰った。
帰って、座った。
座って、思った。
どうして、がっかりするのか。
第三章 版
若いころ、版画を、見た。
リノリウムの、版画だ。
一枚の板を、彫る。
彫った板に、インクを、つけて、紙を、押し当てる。
一枚、刷れる。
もう一枚、押し当てる。
同じものが、もう一枚、刷れる。
何枚でも、刷れる。
版は、一つだ。
刷りは、何枚でもある。
父の、まあ、いい、は、版だった。
父が、いつ、彫ったのかは、知らない。
彫った版で、父は、刷った。
こちらに、刷った。
勤め先の人に、刷った。
隣の人に、刷った。
何百枚、刷ったのかは、分からない。
こちらは、一枚、受け取った。
一枚しか、受け取っていない。
一枚だけ持って、六十七年、生きた。
一枚しか無いので、それが、何枚目かを、知らなかった。
知らないで、自分のために、彫られたものだと、思った。
思うのは、当たり前だ。
一枚しか、無いからだ。
法事で、ほかの人の一枚を、見た。
同じ絵だった。
同じ絵を、見て、がっかりした。
がっかりした理由を、考えた。
自分だけの、ものでは、なかったからだ。
でも、そうだろうか。
こちらの一枚は、こちらの手に、ある。
勤め先の人の一枚は、その人の手に、ある。
隣の人の一枚は、その人の家に、ある。
同じ絵だ。
同じ絵が、別の手に、ある。
別の手にあるなら、別の一枚だ。
こちらの一枚は、こちらの一枚だ。
何百枚目でも、こちらには、一枚目だ。
第四章 濃さ
版画は、何枚刷っても、同じ濃さで、出る。
一枚目と、百枚目が、同じだ。
薄くならない。
こちらの一枚は、何枚目か、知らない。
知らないが、薄くない。
七つの茶碗のときも、三十の結婚のときも、同じ濃さで、来た。
濃さは、変わらなかった。
勤め先の人の一枚も、薄くなかったのだろう。
辞めずに、済んだ、と言った。
あの人は、あの人の一枚で、辞めずに、済んだ。
こちらは、こちらの一枚で、次に、進んだ。
同じ絵で、別のことが、起きた。
起きたことは、それぞれの、家にある。
父は、それを、知らない。
刷って、渡しただけだ。
渡した先で、何が起きたかを、父は、見ていない。
見ないで、次を、刷った。
こちらが、自分だけのものだと、思っていたことも、父は、知らない。
知らないで、死んだ。
こちらだけの、ものだと、思わせたのは、父では、ない。
こちらだ。
一枚しか、持っていないから、そう思った。
一枚しか持っていない人は、みんな、そう思う。
勤め先の人も、隣の人も、そう思っていた、かもしれない。
自分のために、言われたと。
思っていて、いい。
思っていることが、その人の一枚だ。
第五章 息子
息子が、四十五だ。
息子が、去年、仕事で、大きく、しくじった。
電話で、言ってきた。
こちらは、聞いて、言った。
まあ、いい。
言ってから、気づいた。
父の版だ。
父の版で、こちらが、刷った。
息子に、一枚、渡した。
息子は、電話の向こうで、黙った。
黙って、言った。
じいちゃんも、言ってた。
こちらは、聞いた。
いつ。
息子は、言った。
小さいとき、自転車を、壊したとき。
まあ、いい、って。
こちらは、黙った。
息子も、一枚、持っていた。
父から、直接、受け取っていた。
こちらは、知らなかった。
息子は、続けた。
あれ、俺だけに、言ってくれてると、思ってた。
こちらは、言った。
誰にでも、言ってた。
息子は、笑った。
笑って、言った。
そうなんだ。
こちらは、言った。
でも、おまえのは、おまえのだ。
息子は、聞いた。
どういうこと。
こちらは、言った。
一枚しか、持ってないだろう。
一枚しか無いなら、それは、おまえのだ。
息子は、黙った。
黙って、言った。
うん。
こちらは、言った。
いまのも、おまえのだ。
息子は、言った。
うん。
電話が、切れた。
切れてから、思った。
父の版が、こちらの手に、ある。
いつ、渡されたのかは、知らない。
渡されていた。
渡されていた版で、息子に、刷った。
何枚目かは、数えない。
息子には、一枚目だ。
エピローグ
父の写真の前に、座っている。
まあ、いい。
声が、する。
二十年、している。
その声が、何百枚のうちの、一枚だと、知った。
知っても、声は、薄くならない。
同じ濃さで、する。
薄くならないのが、刷りだ。
何枚刷っても、一枚目と、同じだ。
こちらの一枚は、こちらの手に、ある。
誰の一枚とも、取り替えられない。
同じ絵でも、取り替えられない。
手にあるのが、こちらの一枚だからだ。
がっかりしたのは、一日だけだった。
一日で、分かった。
同じでも、一枚は、一枚だ。
父は、誰にでも、渡した。
渡した先で、何が起きるかは、見なかった。
見ないで、渡した。
渡す人は、そうするしか、無い。
こちらも、息子に、そうした。
息子の家で、何が起きるかは、見ない。
見ないで、渡した。
渡した一枚が、息子の一枚に、なる。
なったかどうかは、息子だけが、知る。
こちらは、知らない。
知らなくて、いい。
まあ、いい。
その声で、今日も、次に、進む。
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