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同じ一言

同じ刷りを渡していたこと

同じ一言

朗読で聴く

第一章 気をつけて

六十六になった。

駅前で、小さな文房具屋を、四十年、やっている。

夫は、五年前に、七十で、死んだ。

店は、こちらが、続けている。

客が、帰るとき、言う言葉が、ある。

気をつけて。

それだけだ。

ありがとうございました、のあとに、気をつけて、と言う。

四十年、言ってきた。

誰にでも、言った。

子どもにも、老人にも、初めての客にも、言った。

言おうと、思って、言ったのではない。

口が、そうなっていた。

言われた客が、どうするかは、見ていない。

戸を、あけて、出ていく。

それだけだ。

娘が、一人いる。

三十九だ。

東京に、いる。

娘が、十八で、家を出るとき、こちらは、言った。

気をつけて。

それだけだった。

ほかに、言うことが、無かった。

娘は、うなずいて、出た。

それから、二十一年。

娘が、帰ってくるたび、帰るときに、言う。

気をつけて。

電話を、切るときも、言う。

気をつけて。

二十一年、言ってきた。

去年の秋、娘が、帰ってきた。

三日、いた。

三日目の朝、娘が、店に、出た。

こちらが、客に、気をつけて、と言うのを、娘は、横で、聞いていた。

客が、出ていってから、娘が、言った。

お母さん、それ、誰にでも、言うんだね。

こちらは、聞いた。

それ。

娘は、言った。

気をつけて。

第二章 一枚

娘は、言った。

私、あれ、私だけのだと、思ってた。

こちらは、黙った。

娘は、続けた。

十五のとき、店で、聞いたの。

お母さんが、知らないおじさんに、気をつけて、って言うの。

同じ言い方で。

私に言うのと、同じ言い方で。

こちらは、聞いた。

それで。

娘は、言った。

がっかりした。

私のじゃ、なかったんだって。

こちらは、黙った。

十五のときの娘を、思い出そうとした。

思い出せない。

店に、いたのかどうかも、覚えていない。

娘は、覚えていた。

二十四年、覚えていた。

黙って、思った。

同じだ。

同じ言葉を、同じ言い方で、言っていた。

娘にも、客にも。

違えようと、思ったことが、無い。

思わないで、四十年、同じものを、出していた。

娘は、それを、自分のものだと、思っていた。

思っていて、十五で、そうではないと、知った。

知って、がっかりした。

がっかりしたことを、二十四年、言わなかった。

言わないで、帰るたびに、気をつけて、を、受け取っていた。

こちらは、聞いた。

いまも、がっかりしてる。

娘は、少し、考えた。

考えて、言った。

分からない。

でも、いまは、言われると、帰れる。

言われないと、帰りにくい。

こちらは、黙った。

娘は、店の外を、見た。

見て、言った。

あのおじさんも、そうなのかな。

第三章 版

若いころ、版画を、見た。

リノリウムの、版画だ。

一枚の板を、彫る。

彫った板に、インクを、つけて、紙を、押し当てる。

一枚、刷れる。

もう一枚、押し当てる。

同じものが、もう一枚、刷れる。

何枚でも、刷れる。

版は、一つだ。

刷りは、何枚でもある。

こちらの、気をつけて、は、版だった。

四十年前に、彫った。

彫ったのでは、ない。

口が、そうなった。

なった口で、客に、刷った。

娘に、刷った。

同じ版で、同じ刷りを、何枚も、出した。

娘は、一枚、受け取った。

娘には、一枚しか、無い。

こちらには、何枚でも、ある。

同じ刷りだ。

同じ刷りを、娘は、自分だけのものだと、思った。

思うのは、当たり前だ。

娘の手には、一枚しか、無いからだ。

一枚しか無い人は、それが、何枚目かを、知らない。

知らなくて、いい。

娘の一枚は、娘の一枚だ。

客の一枚は、客の一枚だ。

同じ絵が、刷ってある。

同じ絵でも、持っている人が、違う。

持っている人が違えば、別の一枚だ。

こちらは、それを、知らなかった。

知らないで、同じものを、出していた。

出しているほうは、同じだと、思っている。

受け取るほうは、一枚だと、思っている。

どちらも、本当だ。

第四章 おじさん

娘が、帰ってから、店に、老人が、来た。

三十年、来ている客だ。

八十を、過ぎている。

鉛筆を、一本、買う。

いつも、一本だ。

こちらは、言った。

ありがとうございました。

気をつけて。

老人は、戸口で、止まった。

止まって、言った。

それを、聞きに、来てるんだ。

こちらは、聞いた。

それ。

老人は、言った。

気をつけて。

三十年、それを、聞いて、帰ってる。

家内が、死んでから、誰も、言わないから。

こちらは、黙った。

老人の妻が、いつ死んだのか、知らない。

鉛筆を、一本ずつ、買いに来る理由も、知らなかった。

いま、知った。

老人は、出ていった。

こちらは、店に、立っていた。

立って、思った。

あの人も、一枚、持っている。

三十年ぶん、持っている。

こちらは、同じものを、出しただけだ。

出しただけのものが、あの人の家では、一枚の絵に、なっている。

娘の家でも、なっている。

同じ絵だ。

同じ絵が、別の家で、別の一枚に、なっている。

こちらは、それを、見に行けない。

見に行かなくて、いい。

版を、持っている人は、刷りを、見ない。

刷りは、受け取った人のものだ。

第五章 同じでいい

娘に、電話を、した。

娘は、言った。

この前の、ごめんね。

こちらは、聞いた。

何が。

娘は、言った。

誰にでも言うんだね、って、言ったこと。

なんか、責めたみたいで。

こちらは、言った。

誰にでも、言う。

娘は、黙った。

こちらは、続けた。

誰にでも言うけど、あなたのは、あなたのだ。

娘は、聞いた。

どういうこと。

こちらは、言った。

こっちには、何枚もある。

そっちには、一枚しか無い。

一枚しか無いなら、それは、そっちのだ。

娘は、少し、黙った。

黙って、言った。

うん。

こちらは、言った。

おじさんにも、一枚ある。

あれは、おじさんのだ。

あなたのとは、別だ。

娘は、笑った。

笑って、言った。

同じ言葉なのに。

こちらは、言った。

同じでいい。

同じでも、持ってる人が、違う。

娘は、言った。

じゃあ、切るね。

こちらは、言った。

気をつけて。

娘は、言った。

うん。

電話が、切れた。

切れてから、思った。

一枚、渡した。

何枚目かは、こちらも、数えていない。

数えなくて、いい。

渡した一枚は、渡した先で、一枚目になる。

エピローグ

店に、立っている。

客が、来る。

鉛筆、ノート、封筒。

客が、帰る。

ありがとうございました。

気をつけて。

同じ版だ。

四十年、同じ版だ。

版は、減らない。

何枚、刷っても、減らない。

減らないので、いくらでも、渡せる。

渡した先で、一枚に、なる。

一枚になったものを、こちらは、見ない。

見ないで、次の一枚を、刷る。

娘は、十五で、がっかりした。

がっかりして、二十四年、持っていた。

持っていたものは、同じ刷りだった。

同じ刷りでも、娘の家で、娘の一枚に、なっていた。

なっているのを、娘が、言って、初めて、知った。

知って、何も、変えない。

変えなくて、いい。

版は、一つで、いい。

一つの版から、何枚でも、出る。

出た先で、一枚ずつ、別のものに、なる。

なるところを、こちらは、見ない。

見ないで、言う。

気をつけて。

ソウルミッション358

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