娘の目
近すぎて全体が見えなかったこと

朗読で聴く
第一章 小さい人
六十六になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
夫は、三年前に、七十で、死んだ。
娘が、一人いる。
四十だ。
東の、大きな町に、住んでいる。
こちらは、自分を、小さい人間だと、思ってきた。
子どものころは、父の陰にいた。
父は、大きい人だった。
結婚してからは、夫の横にいた。
夫も、大きい人だった。
こちらは、二人の横で、小さくしていた。
小さくしているのが、こちらの、やり方だった。
声も、小さかった。
決めるのも、夫だった。
こちらは、うなずく側だった。
六十六年、そうしてきた。
そうしてきたので、自分は、小さいと、思っていた。
誰かに、言われたのではない。
自分で、そう思った。
思って、疑わなかった。
夫が、死んだ。
家に、一人になった。
一人になっても、小さいままだと、思っていた。
大きい人が、いなくなっただけだ。
小さい人が、残った。
そう、思っていた。
去年の夏、娘が、来た。
三日、いた。
三日目の夜、娘が、言った。
お母さん、私、家を出るまで、お母さんが、怖かった。
こちらは、驚いた。
驚いて、聞いた。
私が。
娘は、うなずいた。
第二章 怖い
娘は、言った。
お母さんは、大きかった。
何を言うか、分からなかった。
何を言っても、お母さんが、最後に、決めた。
お父さんじゃなくて、お母さんが。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
違う。
決めていたのは、夫だ。
こちらは、うなずいていた。
うなずいていたのを、娘は、見ていなかったのか。
娘は、続けた。
お父さんは、お母さんに、聞いてから、決めてた。
お母さんが、首を振ると、お父さんも、やめた。
だから、本当に決めてたのは、お母さん。
私には、そう見えた。
こちらは、思い出した。
夫が、こちらを、見た。
こちらは、首を、振った。
振ると、夫は、言った。
じゃあ、やめよう。
そういうことが、あった。
あったが、決めた覚えは、無い。
首を振っただけだ。
振っただけのことを、娘は、決めた、と見た。
見て、大きいと、思った。
怖いと、思った。
こちらは、小さいつもりだった。
小さいつもりの人が、娘の目の前に、大きく、いた。
いたことを、六十六で、初めて、聞いた。
娘は、言った。
家を出て、離れて、やっと、お母さんが、小さく見えた。
小さく見えて、初めて、怖くなくなった。
こちらは、聞いた。
小さく。
娘は、言った。
うん。
電話の声、小さいでしょ。
近くにいたときは、その声が、大きかった。
第三章 反対
こちらは、近すぎて、相手の形が、見えない側だと、思っていた。
父が、大きすぎた。
夫が、大きすぎた。
近くにいて、形が、見えなかった。
そう、思っていた。
反対だった。
こちらが、娘にとって、大きすぎた。
娘の目の前に、いた。
目の前にいるものは、枠から、はみ出す。
はみ出したものは、大きい。
大きいものは、怖い。
娘は、怖かった。
こちらは、知らなかった。
自分が、はみ出していることを、知らなかった。
小さいつもりだったからだ。
小さいつもりは、自分の中の、大きさだ。
娘の目に、映る大きさでは、ない。
娘の目には、目の前にいる分だけ、大きかった。
どれだけ小さくしても、目の前にいれば、大きい。
近さが、大きさになる。
こちらは、近さを、大きさだと、思わなかった。
思わないで、小さくしていた。
小さくしても、近かった。
近いので、大きかった。
父は、こちらに、大きかった。
父は、自分を、大きいと、思っていただろうか。
分からない。
思っていなかったかもしれない。
思っていなくても、こちらの目には、大きかった。
同じことを、こちらは、娘に、していた。
していたことを、知らなかった。
知らないのは、自分の形は、自分に、見えないからだ。
娘の目の中の自分を、こちらは、見られない。
見られないまま、はみ出していた。
第四章 版
若いころ、版画を、見た。
逆光の、版画だ。
白い光の前に、黒い塊が、一つ、ある。
塊は、大きい。
枠より、大きい。
二つのふちから、はみ出している。
はみ出しているので、全体が、分からない。
分かるのは、枠の中の、部分だけだ。
部分は、黒い。
黒いだけで、何かは、分からない。
こちらは、その塊だった。
娘の目の前にいて、枠より、大きくて、はみ出していた。
はみ出したこちらの、全体を、娘は、見なかった。
見えなかった。
見えないので、黒い塊として、知っていた。
塊に、お母さん、と名前を、つけた。
名前は、怖かった。
黒くて、大きくて、何を言うか、分からない。
それが、娘の中の、こちらだった。
こちらの中の、こちらは、小さかった。
どちらも、同じ一人だ。
同じ人が、見る位置で、大きさが、違う。
娘は、家を出て、離れた。
離れて、塊が、枠に、入った。
入った塊は、形を、持った。
小さい人、声の小さい人、という形だ。
その形は、こちらが、自分だと思っていた形だ。
娘が、離れて、初めて、その形を、見た。
見て、怖くなくなった。
こちらは、娘が、離れたことを、寂しいと、思っていた。
寂しいと思っていたが、離れて、初めて、娘は、こちらを、見た。
近くにいたあいだ、娘は、こちらを、見ていなかった。
見ていたのは、黒い塊だった。
第五章 娘に
娘に、聞いた。
いまは、怖くないの。
娘は、笑った。
笑って、言った。
怖くない。
小さいから。
こちらは、言った。
小さいつもりだった。
ずっと。
娘は、言った。
知ってる。
お母さん、自分のこと、小さいって、思ってたでしょ。
それが、近くにいると、いちばん、大きく見える。
こちらは、聞いた。
どうして。
娘は、言った。
小さいつもりの人は、自分がどう見えてるか、考えないから。
考えないで、目の前にいるから。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
その通りだ。
考えなかった。
どう見えているかを、六十六年、考えなかった。
小さいと、決めていたからだ。
決めていたので、考えなかった。
考えないで、娘の目の前に、いた。
いたので、大きかった。
大きさは、こちらが、決めるものでは、なかった。
見る人の、近さが、決める。
娘は、近かった。
近いので、こちらは、大きかった。
大きいことを、こちらは、知らなかった。
知らなかったことを、娘が、離れて、教えた。
離れなければ、教えられなかった。
離れる前は、怖くて、言えなかった。
言えないほど、大きかった。
小さいつもりの人が。
エピローグ
娘と、電話で、話す。
こちらの声は、小さい。
小さい声を、娘は、遠くで、聞く。
遠くで聞く声は、小さいままだ。
小さいままの声が、娘には、いま、こちらの形だ。
形が、見えている。
見えているので、怖くない。
近くにいたころ、形は、無かった。
無かったので、怖かった。
怖かった人が、いま、笑って、電話をしている。
こちらは、小さいつもりで、六十六年、いた。
いた場所は、父の陰、夫の横だった。
陰と横で、小さかった。
娘の前では、大きかった。
同じ人だ。
同じ人が、立つ位置で、大きさが、変わる。
変わることを、知らなかった。
自分の形は、自分には、見えない。
見えないので、小さいと、決めていた。
決めた形は、娘の目には、届かなかった。
届くのは、近さだけだ。
近さが、大きさになった。
なったものを、娘は、怖かった、と呼んだ。
呼ばれて、初めて、知った。
知って、電話を、切る。
切ったあと、思う。
いまは、遠い。
遠いので、小さい。
小さいのが、本当の大きさなのかは、分からない。
分からないが、娘には、見えている。
見えているなら、それで、いい。
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