妻の大きさ
近すぎて全体が見えなかったこと

朗読で聴く
第一章 大きい人
七十四になった。
妻は、去年の夏に、七十で、死んだ。
結婚して、四十六年だった。
妻は、大きい人だった。
背が、高いのではない。
声が、大きいのでもない。
家の中で、大きかった。
何かを、聞けば、妻が、答えた。
何かが、無ければ、妻が、出した。
何かが、起これば、妻が、決めた。
こちらは、その横に、いた。
横にいて、妻の言うとおりに、した。
四十六年、そうだった。
妻が、どんな人なのか、考えたことは、無い。
考える必要が、無かった。
目の前に、いた。
目の前にいるものを、考える人は、いない。
妻が、死んだ。
家が、急に、大きくなった。
大きくなったのではない。
妻が、いなくなって、空いた。
空いたところの大きさが、妻の大きさだった。
思っていたより、大きかった。
台所も、居間も、廊下も、妻の分が、空いていた。
空いたまま、一年、いた。
一年、妻の大きさの中で、暮らした。
暮らして、思った。
こんなに、大きかったのか。
大きかったのに、形は、知らない。
大きさは、分かる。
形は、分からない。
第二章 妹
妻の妹が、来た。
六十五だ。
仏壇に、手を合わせて、こちらと、話した。
話の途中で、妹が、言った。
姉さんは、小さい人でしたよね。
こちらは、聞いた。
小さい。
妹は、言った。
体も、声も、小さくて。
子どものころから、隅にいる人で。
私のほうが、よく、しゃべってました。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
小さい。
妻が、小さいと、思ったことは、一度も、無い。
こちらの妻は、大きかった。
家の真ん中に、いた。
隅に、いたことは、無い。
妹の姉と、こちらの妻は、別の人のようだった。
妹は、続けた。
結婚してから、変わりました。
変わったというより、大きくなった。
大きく見えるようになった、というか。
こちらは、聞いた。
いつから。
妹は、少し、考えた。
考えて、言った。
分からない。
でも、あなたの横にいるときの、姉さんは、大きかった。
こちらは、黙った。
こちらの横で、大きかった。
妹の横では、小さかった。
同じ人だ。
同じ人が、こちらの横にいると、大きくなった。
なったのではない。
こちらから見て、大きかった。
近かったからだ。
第三章 近い
近くにあるものは、大きい。
枠から、はみ出る。
はみ出たものの、全体は、見えない。
見えないので、大きいとだけ、思う。
妻は、こちらの、目の前に、いた。
四十六年、目の前に、いた。
目の前にいる人の、形は、見えない。
見えるのは、目の前の、部分だけだ。
声、手、料理、返事。
部分だ。
部分は、知っている。
全体は、知らない。
全体を、知っているのは、妹だ。
妹は、離れていた。
同じ家では、なかった。
年に、二度、会うだけだった。
離れて見る人には、全体が、枠に、入る。
入った全体は、小さかった。
小さいのが、妻の、本当の大きさだ。
本当の大きさを、こちらは、知らなかった。
知らないで、四十六年、大きい妻と、暮らした。
大きい妻は、こちらの目が、作ったものだ。
近すぎる目が、作った。
作ったものを、妻だと、思っていた。
妻は、小さかった。
小さい人が、こちらの横で、家の真ん中にいて、全部を、決めていた。
決めていたのは、大きいからでは、ない。
こちらが、決めなかったからだ。
決めない人の横で、小さい人が、決めた。
決めるので、大きく、見えた。
大きく見える人を、大きいと、思った。
思って、形を、見なかった。
第四章 版
若いころ、版画を、見た。
逆光の、版画だ。
白い光の前に、黒い塊が、一つ、ある。
塊は、大きい。
枠より、大きい。
二つのふちから、はみ出している。
はみ出しているので、全体が、分からない。
分かるのは、枠の中の、部分だけだ。
部分は、黒い。
黒いだけで、何かは、分からない。
妻は、その塊だった。
目の前にいて、枠より、大きくて、はみ出していた。
はみ出した妻の、全体を、こちらは、見なかった。
見えなかった。
見えないので、黒い塊として、知っていた。
塊に、妻、と名前を、つけた。
名前で、足りていた。
妹は、離れていた。
離れた人には、塊が、枠に、入る。
入った塊は、形を、持つ。
小さい人、隅にいる人、という形だ。
こちらは、その形を、知らなかった。
知る位置に、いなかった。
近すぎる位置に、四十六年、いた。
近すぎる位置から、妻は、はみ出す塊だった。
塊が、無くなった。
無くなって、光が、入った。
光が入って、空いたところの大きさが、見えた。
大きさは、見えた。
形は、まだ、見えない。
形は、離れないと、見えない。
妻は、死んで、離れた。
離れた妻の形を、こちらは、妹の言葉で、初めて、聞いた。
小さい人。
聞いて、思った。
知らない人だ。
第五章 空いたところ
妹が、帰ってから、家を、見て回った。
台所に、立った。
妻が、立っていた場所だ。
立って、思った。
ここに、小さい人が、いた。
小さい人が、ここで、毎日、決めていた。
何を作るか。
何を買うか。
誰に、何を、言うか。
全部、ここで、決めていた。
決めているのを、こちらは、横で、見ていた。
見ていて、大きいと、思った。
大きいのではなかった。
決めていただけだ。
決める人は、近くから見ると、大きい。
離れて見ると、小さい人が、決めていた。
小さい人が、決めていたのなら、大変だったろう。
大変だと、思ったことは、無かった。
大きいと、思っていたからだ。
大きい人は、大変では、ない。
小さい人が、大きい場所に、立っていた。
立っていたことを、妹の言葉で、知った。
知って、台所の妻の場所に、立った。
立ってみると、狭かった。
狭い場所だ。
狭い場所で、四十六年、小さい人が、大きくしていた。
大きくしていたのは、こちらのためだった。
こちらが、決めないので、決めた。
決めるので、大きく、なった。
なったのを、こちらは、妻の大きさだと、思った。
妻の大きさでは、なかった。
こちらの、決めなさの、大きさだった。
エピローグ
台所に、立っている。
妻の場所だ。
狭い。
狭い場所で、決める。
何を作るか。
何を買うか。
小さいことばかりだ。
小さいことを、毎日、決めると、大きくなる。
大きくなるのは、こちらではない。
場所だ。
場所が、大きく、見える。
見えるのは、横に、誰かがいればだ。
いない。
いないので、こちらが、大きくなることは、無い。
無いまま、決める。
決めながら、思う。
妻は、この場所で、小さいまま、大きく見えていた。
大きく見せたのは、こちらの目だ。
こちらの目が、近すぎた。
近すぎて、形が、見えなかった。
見えないまま、四十六年、大きい妻と、暮らした。
大きい妻は、いなかった。
小さい妻が、いた。
小さい妻を、知っているのは、妹だ。
こちらは、大きい妻しか、知らない。
大きい妻は、こちらの目の中に、いた。
目の中の妻を、いまも、持っている。
持っているものは、はみ出していて、形が無い。
形が無いものを、妻と、呼ぶ。
呼びながら、狭い台所に、立つ。
立って、決める。
小さい人が、していたことを、する。
するたびに、小さかった人が、少し、見える。
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