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母の形

近すぎて全体が見えなかったこと

母の形

朗読で聴く

第一章 どんな人

六十三になった。

母は、春に、八十七で、死んだ。

葬式のあと、母の友だちが、家に、来た。

母と同じ年の、人だ。

六十年の、つきあいだという。

その人が、言った。

あなたのお母さん、面白い人だったのよ。

こちらは、聞いた。

面白い。

その人は、言った。

人の話を、途中で、自分の話にしちゃうの。

でも、その話が、いつも、こっちの話より、面白いの。

だから、誰も、怒らなかった。

こちらは、黙った。

黙って、思った。

知らない。

母が、人の話を、自分の話にするところを、見たことが、無い。

家では、母は、聞く人だった。

聞いて、うなずく人だった。

面白い人だとは、思ったことが、無い。

母は、母だった。

母が、どんな人なのか、考えたことが、無かった。

六十三年、考えなかった。

母の声は、知っている。

母の手は、知っている。

母の料理も、癖も、寝る時間も、知っている。

全部、知っている。

知っているのに、どんな人なのか、答えられない。

答えられないことに、友だちの話で、気づいた。

友だちは、答えられる。

面白い人。

三文字で、答えた。

こちらは、六十三年、一緒にいて、三文字が、出ない。

第二章 近い

なぜ、出ないのか。

考えた。

近すぎたからだ。

近くにあるものは、全部が、見えない。

目の前に、壁があれば、壁の形は、分からない。

分かるのは、壁の、目の前の部分だけだ。

母は、壁だった。

目の前に、あった。

あって、目の前の部分だけを、見た。

声、手、料理、癖。

部分だ。

部分は、知っている。

全体は、知らない。

全体を見るには、離れないと、ならない。

離れたことが、無かった。

二十で、家を出た。

出たが、母は、近いままだった。

電話で、近かった。

帰れば、近かった。

近いままで、四十三年、いた。

友だちは、離れていた。

同じ町に、いたが、家の外に、いた。

外から、母を、見た。

外から見る人には、形が、見える。

面白い人、という形だ。

形は、離れないと、見えない。

こちらは、離れなかった。

離れなかったので、母は、形を、持たなかった。

持たないまま、母だった。

母、という言葉が、形の代わりだった。

言葉があるので、形が無いことに、気づかなかった。

母、と呼べば、それで済んだ。

済んでいたので、見なかった。

第三章 写真

母の写真を、整理した。

古い写真だ。

母が、三十のころ。

こちらが、六つのころだ。

写真の母は、小さかった。

小さい人だった。

背が、低い。

肩が、細い。

写真の中で、父の肩の、下にいる。

こちらは、驚いた。

母が、小さいとは、思っていなかった。

母は、大きかった。

子どものころ、母は、こちらより、大きかった。

当たり前だ。

子どもだからだ。

大きい母を、六つのときに、覚えた。

覚えたまま、六十三になった。

こちらは、母より、大きくなった。

大きくなったが、母は、大きいままだった。

近くにいたからだ。

近くにあるものは、大きい。

枠から、はみ出る。

はみ出たものの、大きさは、分からない。

分からないので、大きいと、思う。

写真は、離れて、撮ってある。

離れた写真の中で、母は、小さい。

小さいのが、母の、本当の大きさだ。

本当の大きさを、こちらは、六十三で、初めて、見た。

見て、思った。

この人は、誰だ。

小さくて、父の肩の下にいて、笑っている。

こちらの知っている母では、ない。

こちらの母は、大きくて、目の前にいて、形が無い。

写真の母は、小さくて、離れていて、形がある。

二人、いた。

二人のうち、こちらが知っているのは、形の無いほうだ。

形のあるほうを、友だちが、知っていた。

第四章 版

若いころ、版画を、見た。

逆光の、版画だ。

白い光の前に、黒い塊が、一つ、ある。

塊は、大きい。

枠より、大きい。

二つのふちから、はみ出している。

はみ出しているので、全体が、分からない。

分かるのは、枠の中の、部分だけだ。

部分は、黒い。

黒いだけで、何かは、分からない。

母は、その塊だった。

目の前にいて、枠より、大きくて、はみ出していた。

はみ出した母の、全体を、こちらは、見なかった。

見えなかった。

見えないので、黒い塊として、知っていた。

塊に、母、と名前を、つけた。

名前で、足りていた。

友だちは、離れていた。

離れた人には、塊が、枠に、入る。

入った塊は、形を、持つ。

形を持った塊を、友だちは、面白い人、と呼んだ。

こちらは、呼べなかった。

呼ぶには、枠に、入っていないと、ならない。

入っていなかった。

六十三年、入っていなかった。

入らないまま、母は、死んだ。

入れなかったのは、こちらが、動かなかったからだ。

死んで、少し、離れた。

離れて、写真で、初めて、枠に、入った。

入った母は、小さくて、笑っていて、知らない人だった。

知らない人が、こちらの母だった。

第五章 娘

娘が、三十八だ。

娘に、聞いた。

私って、どんな人。

娘は、少し、考えた。

考えてから、言った。

分からない。

こちらは、聞いた。

分からないの。

娘は、言った。

お母さんは、お母さんだから。

こちらは、黙った。

黙って、思った。

同じだ。

こちらが、母に、思っていたことと、同じだ。

母は、母だから。

形は、無い。

娘にとって、こちらは、枠より、大きい。

はみ出している。

はみ出しているので、娘は、こちらの形を、知らない。

声も、手も、料理も、癖も、知っている。

全体は、知らない。

知らないまま、お母さん、と呼んでいる。

呼ばれて、こちらは、気づかなかった。

気づかなかったのは、母も、同じだったろう。

母も、こちらに、形を、見られていないことを、知らなかった。

知らないで、母、と呼ばれて、死んだ。

死んで、写真で、初めて、形を、見せた。

こちらも、いつか、そうなる。

娘が、写真で、初めて、こちらの形を、見る。

小さくて、知らない人だと、思うだろう。

思っていい。

近くにいたということだ。

近くにいて、形が見えないのは、悪いことでは、ない。

見えないほど、近かった。

それだけのことだ。

それだけのことを、六十三年、知らなかった。

エピローグ

母の写真を、机の上に、置いた。

小さい母だ。

笑っている。

知らない人だ。

知らない人を、毎日、見る。

見て、少しずつ、形を、覚える。

覚えても、目の前にいた母とは、つながらない。

つながらなくて、いい。

二人とも、母だ。

枠に入った母と、はみ出していた母だ。

はみ出していたほうを、六十三年、持っていた。

持っていたものに、形は、無かった。

形は無かったが、重かった。

重さは、近くにいないと、分からない。

友だちは、形を、知っていた。

重さは、知らない。

こちらは、重さを、知っている。

形は、知らなかった。

どちらかしか、持てない。

近ければ、重さ。

離れれば、形。

こちらは、重さのほうを、六十三年、持った。

持ったので、形が、見えなかった。

見えなかったことを、いま、写真の前で、知っている。

知って、写真を、見る。

小さい母が、笑っている。

この人が、重かった。

ソウルミッション358

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