廊下
手数をかけたところだけが明るいこと

朗読で聴く
第一章 明るい家
六十二になった。
母は、去年の秋に、八十九で、死んだ。
実家は、廊下の長い家だ。
玄関から、奥の部屋まで、十二歩。
板の廊下だ。
子どものころ、その廊下は、明るかった。
朝、学校に行くとき、廊下が、光っていた。
夕方、帰ってくると、まだ、光っていた。
明るい家だと、思っていた。
家が、明るいのだと、思っていた。
日当たりが、いいのだと。
窓が、大きいのだと。
そう、思っていた。
六十二年、思っていた。
家を出て、四十年。
盆と正月に、帰った。
帰るたびに、廊下は、光っていた。
変わらない家だと、思った。
変わらないのは、家だと、思った。
母が、死んだ。
葬式のあと、家を、閉めた。
閉めて、半年、誰も、いなかった。
春に、片付けに、行った。
玄関を、開けた。
廊下が、暗かった。
電気を、つけた。
つけても、暗かった。
同じ電気だ。
同じ窓だ。
同じ廊下だ。
暗かった。
暗いのは、電気のせいでは、ない。
窓のせいでも、ない。
何のせいか、分からなかった。
第二章 雑巾
しゃがんで、床を、見た。
板が、くすんでいた。
半年ぶんの、ほこりだ。
ほこりの下の板は、木の色をしていた。
光っていない、木の色だ。
木は、光らない。
光っていたのは、板ではなかった。
板の上の、何かだった。
思い出した。
母は、毎朝、廊下を、拭いていた。
雑巾で、四つん這いになって、玄関から奥まで、十二歩。
子どものころ、毎朝、見た。
見たが、見ていなかった。
母が、廊下を、拭いている。
それだけのことだった。
毎朝のことは、見えない。
四十年、盆と正月に帰るたびに、母は、朝、拭いていた。
こちらが起きる前に、終わっていた。
終わった廊下だけを、こちらは、見た。
光っている廊下だ。
光っているのを、家の明るさだと、思った。
母の雑巾だった。
一日一回、六十年。
二万回を、超える。
二万回の雑巾が、板を、光らせていた。
光は、窓から、来る。
来た光を、返すのは、板だ。
返すには、磨いてなければ、ならない。
磨いていたのは、母だ。
母が、削っていた。
毎朝、一回、黒から、削っていた。
削った分だけ、明るかった。
削らない日は、一日も、無かった。
無かったことを、こちらは、知らない。
知らないが、廊下は、毎朝、光っていた。
削るのをやめて、半年で、黒に、戻った。
戻るのは、早い。
削るのは、六十年で、戻るのは、半年だ。
第三章 削る
若いころ、版画を、見た。
黒い版に、白い線を、彫る版画だ。
最初は、全部、黒だ。
彫ったところだけが、白くなる。
密に彫れば、白く開く。
粗く彫れば、黒が、見える。
彫らなければ、黒のままだ。
明るさは、彫った線の数だ。
線の数だけ、明るい。
勝手に、明るくは、ならない。
母の廊下は、その版画だった。
毎朝、一本、彫った。
六十年、二万本。
二万本の線で、廊下は、白く、開いていた。
開いているのを、こちらは、家の明るさだと、思った。
家は、黒い、版だ。
版は、勝手に、光らない。
光らせたのは、母の手数だった。
手数を、こちらは、見なかった。
見なかったのは、朝、寝ていたからだ。
起きたときには、線が、彫られていた。
彫られた線だけを、見た。
彫っている手を、見なかった。
手は、こちらが起きる前に、終わっていた。
終わった手を、見る人は、いない。
見ないので、線が、勝手に、あると、思った。
勝手に、ある線は、無い。
全部、誰かの手数だ。
手数を見ない人は、明るさを、家のものだと、思う。
こちらは、六十二年、そう思った。
手数が止まると、黒に、戻る。
戻った黒を、春に、見た。
黒が、本当の家だった。
黒の上に、母が、毎朝、白い線を、彫っていた。
第四章 拭く
雑巾を、探した。
台所の下に、あった。
母の、雑巾だ。
乾いて、固くなっていた。
水で、戻した。
四つん這いになって、玄関から、拭いた。
十二歩ぶん。
膝が、痛かった。
痛いまま、奥まで、拭いた。
拭き終わって、立った。
廊下を、見た。
少し、明るかった。
少しだけだ。
子どものころの明るさでは、なかった。
一本、彫っただけだ。
一本では、開かない。
開くには、二万本、要る。
二万本を、母は、彫った。
こちらは、一本だ。
一本の明るさは、一本ぶんしか、無い。
それが、正しい。
正しいので、悔しくなかった。
悔しいのではなく、分かった。
明るさが、何でできているかを、分かった。
次の日も、拭いた。
二本目だ。
二本目は、一本目より、少し、明るかった。
少しだ。
少しずつしか、明るくならない。
母は、それを、六十年、続けた。
続けたことを、誰にも、言わなかった。
言わないので、家が明るいと、みんな、思った。
父も、そう思っていただろう。
こちらも、思った。
弟も、思った。
三人が、家の明るさだと思っていたものは、母の手数だった。
手数は、見えない。
明るさだけが、見える。
第五章 弟
弟が、来た。
五十八だ。
玄関で、言った。
なんか、暗いな。
こちらは、言った。
母さんが、ふいてたから。
弟は、聞いた。
何を。
こちらは、言った。
廊下。毎朝。
弟は、廊下を、見た。
見て、しばらく、黙った。
黙ってから、言った。
知らなかった。
こちらは、言った。
私も、知らなかった。
知っていたが、知らなかった。
見ていたが、見ていなかった。
弟は、廊下に、しゃがんだ。
しゃがんで、板を、さわった。
さわって、言った。
こんな色だったんだ。
こちらは、言った。
これが、家の色。
弟は、言った。
明るい家だと、思ってた。
こちらは、言った。
母さんの手数だった。
弟は、立った。
立って、雑巾を、見た。
台所の前に、干してあった。
こちらが、使った雑巾だ。
弟は、聞いた。
姉さん、ふいてるの。
こちらは、言った。
三日。
弟は、笑った。
笑って、言った。
二万回には、遠いな。
遠い、と、こちらも、言った。
遠いことが、分かっただけで、いい。
分からないままだった四十年より、いい。
弟も、うなずいた。
うなずいて、雑巾を、しぼった。
エピローグ
家は、売る。
売るまで、拭く。
毎朝、十二歩ぶん。
膝が、痛い。
痛いのが、母の六十年の、一日ぶんだ。
一日ぶんを、毎日、知る。
知って、拭く。
拭いた廊下は、少しずつ、明るくなる。
少しずつが、明るさの、本当の速さだ。
本当の速さを、母は、こちらに、見せなかった。
見せないで、出来上がった廊下だけを、見せた。
見せられたこちらは、家が明るいと、思った。
家は、黒い、版だ。
版の上に、白い線が、二万本あった。
線を、彫った人が、いなくなった。
いなくなって、黒が、出た。
黒が出て、初めて、線が、彫られていたと、知った。
知った手で、一本ずつ、彫る。
彫るたびに、母の一日が、分かる。
分かったぶんだけ、明るくなる。
明るくなったところに、立つ。
立って、奥を、見る。
奥は、まだ、黒い。
黒いところを、明日、彫る。
彫るのは、こちらの手だ。
母の手は、もう無い。
無い手が、二万本、彫っていた。
彫られていた家に、こちらは、育った。
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