手すり
日が低くなって見えたこと

朗読で聴く
第一章 廊下
七十四になった。
妻は、三年前に、七十で、死んだ。
最後の五年、妻は、足が、悪かった。
家の廊下に、手すりを、つけた。
こちらが、つけた。
木の、手すりだ。
寝室から、台所まで、八歩ぶん。
妻は、毎日、そこを、伝って、歩いた。
朝、台所へ。
昼、寝室へ。
夕方、台所へ。
夜、寝室へ。
一日、四回。
五年で、七千回を、超える。
こちらは、後ろから、見ていた。
妻が、転ばないように、見ていた。
妻の背中を、見ていた。
妻の手も、見ていた。
手すりを、握る手だ。
手すりは、見なかった。
手すりは、ただの、木だった。
こちらが、つけた木だ。
つけたときのまま、そこにあると、思っていた。
妻が、死んだ。
手すりは、そのままにした。
外す理由が、無かった。
外さない理由も、無かった。
三年、そのままだ。
こちらも、毎日、廊下を、通る。
通るとき、手すりに、触らない。
触らないで、通る。
通るたびに、見ていた。
見ていたつもりだった。
第二章 低い日
去年の、秋の、夕方だった。
廊下の突き当たりの窓から、日が、入った。
低い日だ。
横から、廊下を、長く、走った。
走った光が、手すりに、当たった。
当たって、こちらは、立ち止まった。
手すりの、一箇所が、光っていた。
光っているというより、色が、違った。
塗りが、擦れて、木の色が、出ていた。
手の幅だけ、出ていた。
寝室の出口から、二歩のところだ。
そこだけ、擦れていた。
近づいて、見た。
木の色が、周りより、明るかった。
明るいのは、塗りが、無くなったからだ。
無くなったのは、手が、擦ったからだ。
妻の手だ。
七千回、握った手だ。
握って、離した。
離して、また、握った。
七千回で、塗りが、消えた。
消えたところが、低い日に、光った。
昼は、光らない。
昼の光は、上から、来る。
上から来る光は、塗りの有る無しを、見せない。
同じ木に、見える。
横から、低く、来たとき、だけ、違いが、出る。
擦れたところが、光を、返す。
返した光を、こちらは、三年目の秋に、見た。
三年、毎日、通った廊下だ。
毎日、とおって、見なかった。
第三章 見ていた
見なかったのでは、ない。
見ていた。
見ていたのは、妻だ。
妻が、生きていたときは、妻を、見ていた。
手すりを握る、妻の手を、見ていた。
手の下に、手すりが、あった。
あったが、手が、上に、あった。
手が、擦れを、隠していた。
妻が、死んだ。
手が、無くなった。
無くなって、擦れが、出た。
出たが、昼の光では、見えない。
こちらは、昼に、廊下を、通る。
夕方は、台所にいる。
廊下は、通り道で、いる場所では、ない。
いない場所の、夕方の光を、見ることは、無い。
去年の秋、たまたま、夕方に、廊下にいた。
いた理由は、覚えていない。
覚えていないほど、小さな理由だ。
小さな理由で、廊下に立って、低い日を、見た。
見て、擦れを、見た。
二つ、そろわないと、見えなかった。
妻の手が、無くなること。
光が、低くなること。
両方が、そろって、初めて、見えた。
そろうのに、三年、かかった。
三年で済んだのは、たまたまだ。
たまたまが無ければ、一生、見なかった。
見ないで、手すりを、外していただろう。
外して、捨てていた。
捨てたものの中に、擦れが、あった。
あることを、知らないで、捨てていた。
捨てなかったのは、理由が、無かったからだ。
理由の無いことが、跡を、残した。
第四章 跡
若いころ、版画を、見た。
柔らかい地に、物を押し当てて、剥がした跡の、版画だ。
跡だけが、刷ってある。
押し当てた物は、無い。
絵の中に、低い日が、横から、差していた。
跡が、光を、返していた。
返すので、跡が、見えた。
真上の光なら、見えない跡だ。
手すりは、その版画だった。
妻が、五年、押し当てた。
押し当てて、剥がした。
剥がした妻は、いない。
残った跡は、真上の光では、見えない。
こちらは、三年、真上から、見ていた。
真上から見る人は、跡を、見ない。
同じ木だと、思う。
同じ木だと思うのは、光のせいで、木のせいでは、ない。
木は、五年、擦れていた。
擦れている木を、妻は、握っていた。
握っている妻を、こちらは、見た。
妻を見るのは、真上から、見ることだった。
妻の手の下は、見なかった。
見なかったのは、妻が、隠したからではない。
こちらの光が、真上だったからだ。
真上の光は、妻がいるときの、光だ。
いる人を、見る光だ。
いなくなると、光が、低くなる。
低くなって、横から、差す。
差して、跡が、光を、返す。
こちらは、妻がいなくなって、光が、低くなった。
低くなったので、見えた。
見えるまで、三年、かかった。
三年、跡は、待っていた。
第五章 手
擦れたところに、手を、置いた。
妻の手の、幅だった。
こちらの手は、少し、大きい。
大きいので、はみ出た。
はみ出たところは、塗りが、ある。
塗りの有るところと、無いところの、境が、手の中に、あった。
境を、指で、なぞった。
なぞると、段が、無い。
同じ高さだ。
塗りが無くなっただけで、木は、減っていない。
減っていないので、真上からは、見えない。
同じ高さで、色だけが、違う。
違いを、低い光だけが、拾う。
拾った光を、こちらは、拾った。
拾って、手を、置いている。
置いて、思った。
妻は、ここを、握るとき、何を、見ていたか。
前を、見ていた。
台所か、寝室を、見ていた。
手すりは、見ていなかった。
見ないで、握った。
握るのは、体が、覚えていた。
覚えた体が、七千回、同じところを、握った。
同じところを握ったので、擦れが、一つになった。
二つに、ならなかった。
一つの擦れが、妻の五年だ。
五年が、手の幅に、入っている。
入っているのを、こちらは、三年、見なかった。
見なかったが、あった。
あったことを、光が、教えた。
妻は、教えなかった。
教えられないところに、跡は、ある。
あるところを、光が、指した。
エピローグ
手すりは、そのままにしてある。
外さない。
毎日、廊下を、通る。
通るとき、擦れたところに、手を、置く。
置いて、通る。
置くのは、妻の手が、あった場所だ。
場所は、真上からは、見えない。
見えないまま、毎日、置く。
置く手が、こちらの手だ。
こちらの手も、いつか、塗りを、擦る。
擦って、跡を、広げる。
広げた跡を、誰かが、低い日で、見るだろう。
見る人は、こちらが、いなくなってからだ。
いなくなって、光が、低くなって、見る。
見るまでに、何年、かかるか、分からない。
分からないが、跡は、ある。
あるものは、見えなくても、ある。
見えるのは、光の、都合だ。
都合を、待つ。
待っているあいだも、跡は、そこにある。
妻の五年と、こちらの三年が、同じ木の、同じ高さに、ある。
高さは、同じだ。
色だけが、違う。
違いを、夕方の日が、拾う。
拾うたびに、廊下に、立つ。
立って、手を、置く。
置いた手の下に、妻の手が、ある。
あることを、低い日だけが、知っている。
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