床の擦れ
日が低くなって見えたこと

朗読で聴く
第一章 片付け
六十三になった。
母は、春に、八十八で、死んだ。
実家を、片付けている。
週に、二度、通う。
電車で、一時間だ。
家は、母が、六十年、住んだ家だ。
父は、二十年前に、死んだ。
それから、母は、一人で、いた。
一人で、六十年の家を、使っていた。
片付けは、台所から、始めた。
鍋を、出した。
皿を、出した。
出して、箱に、詰めた。
詰めるのは、昼だ。
昼に来て、夕方に、帰る。
台所の床は、板だ。
古い板だ。
昼の光は、天窓から、真上に、落ちる。
真上から見る床は、平らだった。
平らな板だと、思っていた。
子どものころから、思っていた。
六十年、平らだった。
平らな床の上で、母は、台所に、立っていた。
立っていたのを、こちらは、見ていた。
母を、見ていた。
床は、見なかった。
見る理由が、無かった。
母が立っていれば、床は、母の下に、あった。
下にあるものは、見ない。
見ないまま、こちらは、六十三になった。
第二章 夕方
ある日、片付けが、長引いた。
電車を、一本、遅らせた。
遅らせて、夕方まで、台所にいた。
西の窓から、日が、入った。
低い日だ。
横から、長く、床の上を、走った。
走った光の中に、影が、出た。
床の、流しの前に、影が、あった。
こちらは、しゃがんだ。
しゃがんで、見た。
板が、減っていた。
流しの前の、足の幅だけ、板が、浅く、へこんでいた。
へこみは、二つ、並んでいた。
右足と、左足だ。
母の足だ。
六十年、そこに、立った足だ。
立って、洗って、切って、煮た。
六十年ぶんの足が、板を、減らした。
減った板は、真上からは、見えない。
平らに、見える。
横から、低い光が、来たとき、だけ、見える。
へこみが、影を、持つからだ。
影を持って、初めて、形になる。
形になったものを、こちらは、六十三で、初めて、見た。
見て、しばらく、動けなかった。
動けないで、日が、沈むのを、待った。
沈むと、影が、消えた。
消えて、床は、また、平らになった。
六十三年、あった。
あったものを、見ていなかった。
見ていなかったのは、光が、真上だったからだ。
昼にしか、来なかった。
昼の光は、へこみを、消す。
消された床を、平らだと、思っていた。
第三章 あった
母が生きているあいだ、母は、そこに、立っていた。
立っている母の、足の下に、へこみが、あった。
あったが、母の足が、上に、あった。
足が、へこみを、隠していた。
隠されたへこみは、見えない。
母が、死んだ。
足が、無くなった。
無くなって、へこみが、出た。
出たが、昼の光では、見えない。
夕方の光で、見えた。
二つ、そろわないと、見えなかった。
母がいなくなること。
光が低くなること。
両方が、そろって、初めて、見えた。
六十三年、そろわなかった。
そろわなかったのは、こちらが、昼に来ていたからだ。
昼に来て、夕方に、帰った。
母の家には、昼しか、いなかった。
子どものころは、夕方も、いた。
いたが、へこみは、無かった。
まだ、母の足が、減らしている途中だった。
途中のへこみは、浅い。
浅いへこみは、低い光でも、影を、持たない。
こちらが家を出てからの、四十年で、へこんだ。
へこんだあいだ、こちらは、昼にしか、来なかった。
だから、見なかった。
見なかったものが、あった。
あったことを、光が、教えた。
教えたのは、光で、母では、ない。
母は、何も、言わなかった。
第四章 真上
若いころ、版画を、見た。
柔らかい地に、物を押し当てて、剥がした跡の、版画だ。
跡だけが、刷ってある。
押し当てた物は、もう無い。
絵の中に、低い日が、横から、差していた。
跡が、影を、持っていた。
影を持つので、跡が、見えた。
真上の光なら、見えない跡だ。
母の台所は、その版画だった。
跡は、六十年、あった。
押し当てた母は、いなくなった。
残った跡は、真上の光では、見えない。
こちらは、六十三年、真上から、見ていた。
真上から見る人は、跡を、見ない。
平らだと、思う。
平らだと思うのは、光のせいで、床のせいでは、ない。
床は、六十年、減っていた。
減っている床の上で、母は、立っていた。
立っている母を、こちらは、見た。
母を見るのは、真上から、見ることだった。
母の上に、光が、あった。
母の足の下は、見なかった。
見なかったのは、母が、見せなかったからではない。
こちらの光が、真上だったからだ。
真上の光は、若い光だ。
若いときは、真上から、見る。
年をとると、光が、低くなる。
低くなって、横から、差す。
差して、跡が、影を、持つ。
こちらは、六十三で、低くなった。
低くなったので、見えた。
第五章 膝
こちらの膝が、痛い。
二年前からだ。
台所に、立つと、痛む。
痛むので、立つ時間が、分かる。
朝、三十分。
昼、二十分。
夜、四十分。
一日、一時間半。
六十年なら、三万時間を、超える。
母は、それだけ、そこに、立った。
立った時間が、板を、減らした。
減った深さが、指の、半分だ。
指の半分に、三万時間が、入っている。
入っているのが、夕方だけ、見える。
膝が痛くなって、初めて、立つ時間を、数えた。
数えて、母の時間が、分かった。
分かったのは、こちらの膝が、母の膝に、近づいたからだ。
近づいて、光が、低くなった。
若いときは、母の膝を、考えなかった。
考えないのは、痛くなかったからだ。
痛くない人は、真上から、見る。
痛い人は、しゃがむ。
しゃがんだ目の高さに、へこみが、あった。
へこみは、しゃがんだ人にだけ、見える高さに、あった。
母は、しゃがまなかった。
自分の足の下は、自分には、見えない。
見えないまま、六十年、減らした。
減らしたものを、娘が、六十三で、見た。
見たことを、母に、言えない。
言えないが、見た。
見たのは、母の足ではない。
足が、無くなったあとの、床だ。
無くなったあとにしか、見えないものが、ある。
エピローグ
片付けは、終わった。
家は、売る。
売る前に、もう一度、夕方に、行った。
西の窓から、日が、入った。
床の、二つのへこみに、影が、出た。
しばらく、しゃがんで、見た。
見て、立った。
立って、そこに、足を、置いた。
右足と、左足を、へこみに、置いた。
母の足の、大きさだった。
こちらの足も、同じ大きさだった。
置いて、流しの前に、立った。
立った目の高さから、床は、見えない。
見えないのが、母の目だった。
六十年、母は、この高さから、見ていた。
自分の跡は、見えない高さだ。
見えない高さで、跡を、作っていた。
作っていることを、知らないで、作った。
知らないで作った跡を、娘が、低い日で、見た。
見たものを、持って、帰る。
家は、無くなる。
へこみも、無くなる。
無くなっても、見た。
見えるまでに、六十三年、かかった。
かかったのは、光が、低くなるのを、待っていたからだ。
待っていたとは、知らなかった。
知らないで、待っていた。
低くなった光で、見た。
見た跡を、真上からは、もう、見ない。
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