どちら様
同じ調子でいたこと

朗読で聴く
第一章 三十八年
六十五になった。
三月に、定年で、会社を、やめた。
三十八年、いた。
経理の、事務だ。
入ったときから、同じ部屋にいた。
部屋の、同じ側の、同じ席だ。
三十八年、同じ調子で、仕事をした。
急がなかった。
遅れなかった。
声を、大きくしなかった。
小さくもしなかった。
周りが、忙しいときは、忙しい顔をした。
周りが、静かなときは、静かにした。
周りの調子に、合わせた。
合わせるのが、こちらの、やり方だった。
やり方を、誰かに、ほめられたことは、無い。
叱られたことも、無い。
無いまま、三十八年、過ぎた。
送別会は、あった。
花束も、もらった。
もらって、帰った。
帰って、それきりだ。
四月、家にいた。
五月、家にいた。
六月、会社に、忘れ物を、取りに行った。
印鑑だ。
机の引き出しに、残していた。
残していたことに、三か月、気づかなかった。
第二章 どちら様
会社の、入口に、立った。
受付に、若い人が、いた。
知らない顔だ。
こちらが、やめてから、入った人だろう。
その人が、言った。
どちら様ですか。
こちらは、言った。
三月まで、ここにいた者です。
若い人は、少し、待ってください、と言った。
言って、奥に、電話した。
電話して、戻ってきた。
戻って、言った。
お名前を、もう一度、いいですか。
こちらは、名前を、言った。
若い人は、また、電話した。
少し、長かった。
長くて、こちらは、待った。
待って、思った。
三十八年、いた。
いた部屋は、この奥だ。
奥にいる人は、こちらを、知っている。
知っているはずだ。
はずだが、電話で、名前を、聞き直している。
聞き直して、分からないでいる。
分からないでいる時間が、長い。
やっと、奥から、人が、出てきた。
同じ部屋にいた、後輩だ。
後輩が、言った。
ああ、どうも。
どうも、と、こちらも、言った。
後輩は、印鑑を、持ってきていた。
こちらは、受け取った。
受け取って、帰った。
どちら様ですか。
帰り道、それだけが、残った。
第三章 同じ色
どちら様ですか、と言われた。
言われたのは、若い人が、こちらを、知らないからだ。
知らないのは、当たり前だ。
こちらがやめてから、入った。
当たり前だと、思った。
思ったが、残った。
残ったのは、奥の電話が、長かったからだ。
奥には、知っている人が、いた。
いたのに、名前を、聞き直した。
聞き直して、すぐに、出てこなかった。
出てこないのは、思い出すのに、時間がかかったからだ。
三か月で、時間がかかる。
三十八年、いたのに。
いたのに、ではない。
いた三十八年が、同じ調子だったからだ。
同じ調子でいた人は、覚えられない。
覚えられないのは、形が、無いからだ。
若いころ、版画を、見た。
線の無い、版画だ。
物の周りに、線を、引かない。
物と、後ろの、色の違いだけで、形が、出る。
同じ色のところは、境が、消える。
消えて、後ろと、一つになる。
一つになった物は、無いのと、同じに見える。
こちらは、部屋と、同じ色だった。
三十八年、同じ色にいた。
いたので、線が、無かった。
線が無いものは、覚えられない。
覚えられないものは、三か月で、消える。
消えて、どちら様ですか、になる。
悪いことでは、ない。
悪いと思うなら、線を、引けばよかった。
引かなかった。
同じ色にいたのは、こちらが、選んだ。
急がないのも、遅れないのも、選んだ。
選んだ通りに、なった。
なっただけだ。
第四章 妻
家に、帰って、妻に、言った。
どちら様ですか、と言われた。
妻は、笑った。
笑って、言った。
そうでしょうね。
こちらは、聞いた。
どうして。
妻は、言った。
あなた、いてもいなくても、同じみたいに、してたから。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
その通りだ。
いてもいなくても、同じ。
そう、していた。
していたのは、部屋を、揺らさないためだ。
部屋には、大きい声の人が、いた。
急ぐ人が、いた。
遅れる人が、いた。
その中で、こちらは、同じ調子でいた。
同じ調子の人が、一人いると、部屋が、落ち着く。
落ち着かせるのが、こちらの、仕事だと、思っていた。
思っていたが、誰にも、言わなかった。
言わないので、誰も、知らない。
知らないので、いてもいなくても、同じに、見えた。
妻が、続けた。
でも、あなたがやめてから、あの部屋、大変なんでしょう。
こちらは、聞いた。
誰が、言った。
妻は、言った。
後輩さん。
この前、電話で。
こちらは、驚いた。
後輩が、妻に、電話していた。
電話して、大変だと、言っていた。
大変なのは、こちらが、いないからだ。
いないと、部屋が、落ち着かない。
落ち着かないのを、後輩は、感じている。
感じているが、こちらの名前を、すぐには、出せなかった。
出せないのと、感じるのは、別だ。
別だが、両方が、あった。
第五章 冷蔵庫
部屋で、冷蔵庫が、鳴っている。
誰も、聞いていない。
止まると、聞こえる。
止まって、初めて、鳴っていたと、分かる。
こちらは、冷蔵庫だった。
三十八年、鳴っていた。
誰も、聞いていなかった。
聞いていないので、覚えていない。
覚えていないが、止まると、分かる。
分かって、大変だと、言う。
言うが、名前は、出てこない。
名前と、音は、別だ。
音は、名前を、持たない。
持たないので、どちら様ですか、になる。
なっても、音は、あった。
あったことを、止まってから、後輩が、知った。
知って、妻に、電話した。
こちらには、電話しなかった。
しないのは、こちらの名前が、出なかったからだ。
出ないので、妻に、した。
妻の名前は、出た。
妻の名前が出て、こちらの名前が出ない。
それでいい。
妻には、線が、ある。
こちらには、無い。
無いのが、こちらだ。
無いまま、三十八年、鳴っていた。
鳴っていたことを、止まって、知られた。
知られただけで、足りる。
名前は、要らない。
要らないと、思えるのに、三か月、かかった。
エピローグ
印鑑を、引き出しに、しまった。
家の、引き出しだ。
会社の引き出しには、もう、何も無い。
何も無いのが、こちらの、三十八年だ。
線を、引かなかった。
引かないので、残らなかった。
残らないが、あった。
あったことを、知っている人が、いる。
妻と、後輩だ。
二人とも、名前より先に、音を、知っている。
音を、知っていれば、いい。
どちら様ですか。
そう、聞かれる。
聞かれて、答える。
三月まで、ここにいた者です。
それで、足りる。
どちら様でも、ない。
同じ色の、一つだ。
一つが、抜けて、部屋の色が、変わった。
変わったことを、部屋は、知っている。
知っている部屋に、もう、行かない。
行かないで、家にいる。
家では、妻が、こちらの名前を、呼ぶ。
呼ばれて、返事をする。
返事は、同じ調子だ。
同じ調子で、いる。
いることを、妻だけが、見ている。
一人に、見えていれば、いい。
三十八年、誰にも、見えなかった。
見えないまま、鳴っていた。
鳴っていたのを、止まってから、知られた。
知られたので、止まったままで、いる。
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