声の高さ
同じ調子でいたこと

朗読で聴く
第一章 同じ高さ
六十九になった。
夫は、七十二だ。
息子が、二人いる。
四十三と、四十だ。
二人とも、家を、出ている。
この家に、四十五年、いる。
四十五年、声の高さを、変えなかった。
怒ったときも。
嬉しかったときも。
同じ高さで、話した。
朝の、ご飯できたよ。
夜の、お風呂わいたよ。
同じ高さだ。
家の中には、音が、ある。
冷蔵庫の音。
換気扇の音。
テレビの音。
こちらの声は、その音と、同じ高さに、あった。
高くも、低くも、しなかった。
しないのが、こちらの、やり方だった。
やり方だと、思っていた。
誰かに、言われたのでは、ない。
自分で、そうした。
高くすると、家が、揺れる。
低くすると、家が、沈む。
どちらも、したくなかった。
したくないので、同じ高さにいた。
四十五年、いた。
いることに、誰も、何も、言わなかった。
言わないので、それでいいと、思っていた。
言われないのは、聞こえていないからだと、知らなかった。
聞こえないほど、家の音に、近かった。
第二章 三日
去年の、冬。
風邪を、ひいた。
声が、出なくなった。
三日、出なかった。
朝、ご飯できたよ、と言えない。
言えないので、夫の肩を、たたいた。
夫が、こちらを、見た。
見て、言った。
どうした。
声が出ない、と、手で、示した。
夫は、驚いた顔を、した。
驚いた顔を、見るのは、久しぶりだった。
久しぶりというより、覚えていなかった。
その日、息子から、電話が、あった。
夫が、出た。
母さんは、声が出ない、と言った。
息子は、代わってと、言った。
代わっても、話せない。
話せないこちらに、息子が、言った。
母さん、大丈夫。
大丈夫、と、言えなかった。
言えないので、電話を、たたいた。
息子は、笑った。
笑って、言った。
変な音。
次の日、息子が、来た。
四十だ。
来て、台所に、立った。
立って、ご飯を、作った。
こちらは、椅子に、座っていた。
座って、息子の背中を、見ていた。
息子が、振り向いて、言った。
母さん、そこにいると、変な感じ。
こちらは、首を、かしげた。
息子は、言った。
いつも、台所にいるから。
座ってると、見える。
見える、と、息子は、言った。
見える、という言い方を、息子が、するとは、思わなかった。
いつもは、見えていないという、言い方だ。
言った本人は、気づいていない。
第三章 見える
三日、声が、出なかった。
三日、家族が、こちらを、見た。
夫が、こちらの顔を、見た。
息子が、こちらの背中を、見た。
見られるのは、久しぶりだった。
久しぶりではない。
初めてかもしれない。
四十五年、同じ高さの声で、いた。
同じ高さの声は、家の音に、まざる。
まざって、聞こえなくなる。
聞こえないものは、見えない。
見えないものに、誰も、目を、向けない。
向けないので、こちらは、見られなかった。
四十五年、見られなかった。
見られないことに、気づいていなかった。
気づいていなかったのは、それが、当たり前だったからだ。
当たり前は、見えない。
見えないものに、こちらは、なっていた。
なっていたことも、当たり前だった。
当たり前の中に、四十五年、いた。
声が、出なくなった。
出ないのは、家の音より、低い。
低くなって、初めて、家の音から、はずれた。
はずれたものは、見える。
夫が、見た。
息子が、見た。
三日だけ、見えた。
三日で、声が、戻った。
戻って、ご飯できたよ、と言った。
夫は、うん、と言った。
顔は、見なかった。
見なくて、済むように、なった。
済むのが、いつもだ。
こちらは、また、家の音に、戻った。
戻って、見えなくなった。
第四章 輪郭
若いころ、版画を、見たことがある。
線の無い、版画だ。
物の周りに、線が、引いていない。
物と、後ろの、色の違いだけで、形が、分かる。
同じ色のところは、境が、消えていた。
消えて、一つに、なっていた。
きれいだと、思った。
思ったが、恐いとも、思った。
同じ色になると、無くなる。
こちらは、四十五年、家と同じ色で、いた。
同じ高さの声で、いた。
いたので、境が、消えた。
消えて、家と、一つになった。
一つになったものを、誰も、見ない。
家を、見る人は、いない。
家の中で、家を、見る人は、いない。
こちらは、家だった。
家だったので、見えなかった。
見えないことを、悪いとは、思わない。
同じ高さにいたのは、こちらが、選んだ。
選んだことを、誰にも、言っていない。
言わないのも、同じ高さの、うちだ。
揺らしたくなかった。
沈めたくなかった。
それで、同じ高さにいた。
同じ高さにいれば、家は、揺れない。
揺れないので、夫も、息子も、揺れなかった。
揺れないのが、家だと、思っていた。
思っていたが、家の中に、いたこちらは、見えていなかった。
見えないまま、四十五年、いた。
いたことを、風邪で、知った。
風邪が、教えた。
教えられて、三日で、忘れるところだった。
第五章 夫
夫に、聞いた。
声が出なかったとき、どう思った。
夫は、少し、考えた。
考えてから、言った。
困った。
こちらは、聞いた。
何に。
夫は、言った。
お前が、いないみたいで。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
いないみたい。
声が出ないときは、いつもより、いた。
台所にも、居間にも、いた。
いたのに、いないみたいだと、夫は、言った。
声が、いなかったからだ。
四十五年、夫は、声を、聞いていた。
顔では、なかった。
背中でも、なかった。
同じ高さの、声だ。
声があるので、いると、思っていた。
声が消えて、いないと、思った。
顔は、目の前に、あった。
あっても、いないと、思った。
夫にとって、こちらは、声だった。
同じ高さの、家の音だった。
家の音が、消えて、夫は、困った。
困って、こちらの顔を、見た。
見て、どうした、と言った。
四十五年で、初めて、顔を、見て、言った。
初めてだと、夫は、思っていないだろう。
思っていなくて、いい。
こちらは、初めてだと、知っている。
知っていて、また、同じ高さに、戻った。
エピローグ
同じ高さで、話している。
ご飯できたよ。
お風呂わいたよ。
家の音と、同じ高さだ。
同じ高さにいると、見えない。
見えないことを、知っている。
知っていて、同じ高さにいる。
いるのは、揺らしたくないからだ。
四十五年、揺らさなかった。
揺らさない人は、見えない。
見えない人が、家を、揺らさないでいる。
それが、こちらの、四十五年だった。
三日だけ、見えた。
見えた三日を、持っている。
持っていることは、言わない。
持って、また、見えないところにいる。
夫は、声を、聞いている。
聞いて、いると、思っている。
それで、いい。
声が、あれば、いる。
いるものを、見なくていい。
見えないところに、こちらは、いる。
いることを、こちらだけが、知っている。
知っていれば、足りる。
同じ高さで、言う。
ご飯できたよ。
夫が、うん、と言う。
うん、も、同じ高さだ。
二人とも、家の音の中に、いる。
いて、見えない。
見えないまま、揺れないでいる。
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