母の言い方
分けられないこと

朗読で聴く
第一章 それでいい
七十になった。
母は、八年前に、九十で、死んだ。
母には、言い方が、あった。
それでいい。
何かを、決めかねていると、母が、言った。
それでいい。
言われると、決まった。
決まって、楽になった。
子どものころから、そうだった。
学校を、選ぶとき。
仕事を、選ぶとき。
妻と、一緒になるとき。
母が、それでいい、と言った。
言われて、そうした。
そうして、困らなかった。
困らなかったので、母の言い方は、いいものだと、思っていた。
母の言い方だと、思っていた。
母のものだ。
母が、持っている。
こちらは、言われる側だ。
そう、思っていた。
七十年、思っていた。
母が死んで、八年、思っていた。
去年、妻が、言った。
あなた、お母さんと、同じ言い方するね。
こちらは、聞いた。
どれ。
妻は、言った。
それでいい、って。
こちらは、黙った。
黙って、思い出した。
言っていた。
息子に、言っていた。
妻に、言っていた。
店の人にも、言っていた。
それでいい。
いつから、言っていたのか。
分からない。
分からないほど、前からだ。
第二章 探す
母の言い方が、こちらの口に、ある。
あることは、分かった。
分かって、探した。
どこまでが、母のものか。
どこからが、こちらのものか。
母から、もらったのなら、境が、あるはずだ。
もらった日が、あるはずだ。
探した。
覚えていない。
最初に、それでいい、と言った日を、覚えていない。
息子が、小さいころには、言っていた。
四十年前だ。
その前は、分からない。
結婚する前に、言っていたか。
妻に、聞いた。
妻は、言った。
言ってたと、思う。
最初から、言ってた気が、する。
最初から。
結婚したのは、二十六だ。
二十六のときに、もう、言っていた。
母から、もらった覚えは、無い。
覚えが無いのに、持っている。
持っているものを、母のものだと、思っていた。
母が、生きているあいだは、母が、言っていた。
母が言うので、母のものに、見えた。
見えただけだ。
こちらも、同じころから、言っていた。
言っていたが、母の後ろで、言っていた。
後ろで言うので、母の声に、重なった。
重なって、こちらの声が、見えなかった。
見えないので、母のものだと、思った。
母が、死んだ。
母の声が、消えた。
消えて、こちらの声だけが、残った。
残った声が、それでいい、と言う。
言うのを、妻が、聞いた。
聞いて、お母さんと同じ、と言った。
同じだ。
同じだが、母から、もらったのでは、ない。
もらった日が、無い。
無いなら、最初から、二人で、持っていた。
第三章 母の母
母の母を、少し、覚えている。
こちらが、六つのときに、死んだ。
祖母が、何と言っていたか、覚えていない。
覚えていないが、母は、覚えているはずだった。
聞けない。
母は、いない。
いないので、考えた。
祖母も、言っていたのでは、ないか。
それでいい。
母は、祖母の後ろで、言っていた。
母の声が、祖母の声に、重なった。
重なって、母は、祖母のものだと、思っていた。
祖母が死んで、母の声だけが、残った。
残った声を、こちらが、聞いた。
聞いて、母のものだと、思った。
三代、同じことを、していた。
誰から、始まったかは、分からない。
分からないのは、始まりが、無いからだ。
誰かが、言い始めたのでは、ない。
いつも、二人で、言っていた。
前の人と、後ろの人と。
前の人の声が、大きい。
大きいので、前の人のものに、見える。
前の人が、いなくなる。
いなくなって、後ろの人が、前になる。
前になった声を、次の人が、後ろで、聞く。
境は、どこにも、無い。
無いものを、こちらは、探していた。
母の分と、こちらの分を、分けようとしていた。
分けられなかった。
分けられないのは、最初から、分かれていなかったからだ。
第四章 息子
息子が、四十だ。
息子に、電話した。
聞いた。
お前、それでいい、って、言うか。
息子は、少し、黙った。
黙ってから、言った。
言う。
言うよ。
こちらは、聞いた。
誰の言い方だと、思ってた。
息子は、言った。
父さんの。
こちらは、言った。
違う。
息子は、聞いた。
じゃあ、誰の。
こちらは、答えられなかった。
答えられないので、言った。
分からない。
息子は、笑った。
笑って、言った。
分からないなら、いいよ。
それでいい。
言われて、こちらは、黙った。
黙って、思った。
息子は、こちらの後ろで、言っていた。
四十年、言っていた。
こちらの声が、大きかった。
大きいので、息子は、こちらのものだと、思っていた。
思っていたが、息子も、持っていた。
最初から、持っていた。
もらったのでは、ない。
こちらが、渡したのでは、ない。
渡した日が、無い。
無いのに、息子の口に、ある。
あるのを、いま、電話で、聞いた。
聞いて、分かった。
境が、無い。
母と、こちらのあいだにも、無かった。
こちらと、息子のあいだにも、無い。
無いまま、四代、続いている。
続いているものに、誰の名前も、つかない。
第五章 青写真
若いころ、役所で、青写真を、見た。
図面を、日に当てて、焼いたものだ。
青い紙に、白い線が、出ている。
線のふちが、にじんでいた。
はっきり、していなかった。
光が、回り込む。
回り込んで、白と青の境が、消える。
消えたところを、見て、思った。
どこまでが、線か。
分からない。
分からなくても、線は、見える。
見えるので、困らない。
母の言い方は、その線だ。
母の分と、こちらの分の、境が、にじんでいる。
にじんで、消えている。
消えたものを、八年、探していた。
探して、無かった。
無いものを、探すのは、疲れる。
疲れて、やめた。
やめて、思った。
母のものでは、ない。
こちらのものでも、ない。
二人で、持っていた。
二人で持っていたものが、こちらの口に、ある。
母の口にも、あった。
息子の口にも、ある。
三人の口に、一つの言い方が、ある。
一つを、三人で、持っている。
持っているだけで、分けない。
分けられないので、分けない。
分けなくて、いい。
エピローグ
それでいい、と言う。
言うたびに、母の声が、後ろで、する。
するが、母の声では、ない。
こちらの声だ。
こちらの声の中に、母の声が、ある。
あるのではなく、最初から、同じ声だった。
同じ声を、母が、先に、出していた。
先に出した人が、いなくなった。
いなくなって、こちらが、出している。
出す声を、息子が、後ろで、聞いている。
聞いて、息子も、出す。
出す声に、こちらの名前が、つく。
父さんの言い方、と息子は、言う。
違うが、いい。
母のときも、そうだった。
母の言い方、とこちらは、呼んだ。
呼ばれた声は、二人の声だった。
二人の声を、一人の名前で、呼んだ。
呼ぶ側は、外にいる。
外からは、線だけが、見える。
線のふちは、見えない。
中にいる者だけが、ふちの無いことを、知っている。
知っていて、言う。
それでいい。
誰のものかは、言わない。
言えないのではなく、言うものが、無い。
無いまま、四代、言っている。
四代目が、いま、電話の向こうで、言った。
それでいい。
それで、いい。
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