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店の味

分けられないこと

店の味

朗読で聴く

第一章 二人の鍋

六十八になった。

夫は、三年前に、七十で、死んだ。

結婚して、四十三年だった。

小さな食堂を、二人で、やっていた。

駅の裏の、八席の店だ。

夫が、煮物と、汁を、作った。

こちらが、焼き物と、和え物を、作った。

最初は、そうだった。

最初は、分かれていた。

夫の味と、こちらの味が、あった。

夫の煮物は、甘かった。

こちらの和え物は、しょっぱかった。

客が、言った。

煮物と和え物が、合ってない。

言われて、二人で、直した。

夫が、砂糖を、減らした。

こちらが、塩を、減らした。

減らして、真ん中に、寄せた。

寄せた味を、店の味に、した。

四十年、その味だ。

途中で、夫が、和え物を、作る日が、あった。

こちらが、煮物を、作る日が、あった。

どちらが作っても、同じ味に、なった。

なったので、分ける意味が、無くなった。

無くなって、鍋を、分けなくなった。

一つの鍋を、二人で、使った。

どちらが、火を止めたか、覚えていない。

覚えていなくても、味は、同じだった。

同じなので、客は、誰が作ったか、聞かなかった。

聞かれないので、こちらも、言わなかった。

言わないまま、四十年、出した。

第二章 同じ味

夫が、死んだ。

店を、閉めようと、思った。

思ったが、閉めなかった。

一人で、開けた。

煮物を、作った。

夫の、煮物だ。

作れた。

作れて、味を、見た。

同じ味だった。

同じで、少し、驚いた。

驚いたが、考えれば、当たり前だ。

四十年、同じ鍋で、作っていた。

客が、来た。

古い客だ。

煮物を、食べて、言った。

変わらないね。

こちらは、言った。

変わらない。

言ってから、思った。

変わらないのは、誰の味か。

夫の味を、こちらが、作っている。

そう、思っていた。

思って、作った。

作った味は、こちらの手から、出た。

出た味が、夫の味と、同じだった。

同じなら、どちらの味か。

考えて、分からなくなった。

夫の味を、こちらが、覚えたのか。

こちらの味を、夫が、覚えていたのか。

四十年で、どちらか、分からなくなっていた。

分からなくなっていたことに、夫が死んで、気づいた。

生きているあいだは、分ける必要が、無かった。

二人で、一つの味だった。

一つの味に、名前は、無かった。

店の味、と客が、呼んだ。

それで、足りていた。

一人になって、初めて、分けようとした。

分けようとして、分けられなかった。

第三章 娘

娘が、四十二だ。

店を、手伝いに、来た。

煮物を、食べて、言った。

お父さんの味が、残ってるね。

こちらは、黙った。

黙って、思った。

残っているのでは、ない。

残る、という言い方は、分かれているときの、言い方だ。

夫の味が、あって、こちらの味が、あって。

夫のほうが、残った。

そういう言い方だ。

違う。

最初から、分かれていなかった。

分かれていなかったものが、そのまま、ある。

あるものを、娘は、夫の味と、呼んだ。

こちらは、言わなかった。

言っても、伝わらないと、思った。

娘は、分かれているものしか、知らない。

自分の味と、人の味と。

四十年、一つの鍋で、煮たことが、無い。

無い人には、分かれていないことが、分からない。

分からないので、残っている、と言う。

言われて、こちらは、言い直さなかった。

娘に、聞かれた。

この味、私にも、教えてくれる。

こちらは、言った。

いいよ。

言ってから、困った。

教えるとき、何を、教えるのか。

砂糖の量、塩の量、火の時間。

教えられる。

教えられるが、それは、夫の分か、こちらの分か。

分からない。

分からないまま、教えることになる。

教えられた娘は、それを、こちらの味だと、思うだろう。

夫の味だと、思うかもしれない。

どちらも、違う。

どちらでもないものを、教える。

第四章 ふち

若いころ、写真屋で、青写真を、見たことがある。

図面を、日に当てて、焼く。

物を置いたところが、白く、残る。

白い形の、ふちが、にじんでいた。

はっきり、していなかった。

光が、ふちから、回り込む。

回り込んで、白と青の、境が、消える。

消えるのを、見て、きれいだと、思った。

夫の味と、こちらの味は、そのふちだ。

最初は、白と青だった。

甘いのと、しょっぱいのと。

四十年、日に当てた。

当てて、ふちが、にじんだ。

にじんで、境が、無くなった。

無くなったものを、いま、分けようとしている。

分けられない。

境が、無いからだ。

境が無いのは、悪いことでは、ない。

四十年、一緒に、火にかけた。

かけたものが、一つに、なった。

なったものを、夫が死んだからと、分けなくていい。

分けなくていいと、思うまでに、三年かかった。

三年、分けようとしていた。

夫の味を、探していた。

探して、無かった。

無いのではない。

全部が、そうだった。

どこを切っても、夫の味で、こちらの味だった。

切れる場所が、無かった。

無いと分かって、探すのを、やめた。

やめて、鍋を、火にかけた。

かけた鍋の中は、三年前と、同じだった。

第五章 鍋

娘に、教えた。

砂糖は、これだけ。

塩は、これだけ。

火は、ここまで。

娘が、作った。

味を、見た。

少し、違った。

違うので、こちらが、言った。

もう少し、煮て。

娘は、煮た。

煮て、近くなった。

近くなったが、同じでは、なかった。

同じでなくて、いい。

娘の手から、出た味だ。

娘の味が、そこに、混じっている。

混じって、また、ふちが、にじむ。

こちらの味と、娘の味と。

そのふちも、いつか、消える。

消えるころ、こちらは、いない。

いなくても、味は、ある。

あるものを、娘は、誰の味と、呼ぶだろう。

お母さんの味、と呼ぶだろう。

違うが、いい。

夫のときも、そうだった。

夫の味、と娘は、呼んだ。

呼ばれた味は、二人の味だった。

二人の味を、一人の名前で、呼ぶ。

呼ぶ側には、それしか、できない。

中にいた側だけが、分かれていないことを、知っている。

知っているこちらが、娘に、教えた。

教えた味に、こちらの名前が、つくだろう。

ついても、いい。

名前は、外から、つくものだ。

中では、分かれていない。

エピローグ

鍋を、一つ、使っている。

夫と、使っていた鍋だ。

娘も、その鍋で、作る。

三人の手が、同じ鍋に、入った。

入って、味が、一つになる。

なったものを、店の味と、呼ぶ。

店の味は、誰のものでも、ない。

誰のものでもないものを、こちらは、四十年、持っていた。

夫の分と、こちらの分を、分けようとした三年が、あった。

分けられなかった。

分けられなくて、よかった。

分けられていたら、夫の分が、消えていた。

消えないのは、分かれていないからだ。

こちらの手が、動くあいだ、夫の味も、動く。

どこまでが夫か、分からないまま、動く。

分からないまま、煮る。

煮て、客に、出す。

変わらないね、と客が、言う。

変わらない、と答える。

誰の味か、聞かれない。

聞かれないので、答えない。

答えられないので、聞かれなくて、いい。

鍋のふちは、にじんでいる。

にじんだまま、火にかける。

ソウルミッション358

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