切れた先
補って見ていたこと

朗読で聴く
第一章 まあ、その
六十六になった。
夫は、去年の冬に、七十一で、死んだ。
結婚して、四十年だった。
夫の言葉は、いつも、途中で、切れた。
まあ、その。
それで、終わる。
まあ、その、の先が、無い。
無いところを、こちらが、補った。
補って、聞いた。
朝、夫が、まあ、その、と言う。
こちらは、お茶ね、と言う。
お茶を、出す。
夫は、飲む。
合っていた、と、思う。
思うだけで、聞かなかった。
夜、夫が、まあ、その、と言う。
こちらは、疲れたのね、と言う。
夫は、風呂に、行く。
合っていた、と、思う。
四十年、そうだった。
夫の言葉は、線が、途中で、消える。
消えた先を、こちらの目が、閉じた。
閉じて、形にした。
形にしたものに、返事をした。
返事をすると、夫は、動いた。
動いたので、合っていると、思った。
思って、四十年、閉じ続けた。
夫は、一度も、違う、と言わなかった。
言わないので、合っていた。
合っていると、思っていた。
第二章 補うものが無い
夫が、死んだ。
まあ、その、が、無くなった。
無くなって、しばらく、たって、気づいた。
台所で、お茶を、二つ、入れてから、気づいた。
補うものが、無い。
四十年、毎日、していたことが、できない。
できないのは、線が、無いからだ。
欠けた線が、無い。
欠けた線が無いと、閉じるものも、無い。
閉じるものが無いと、こちらは、何を、していたのか。
考えた。
考えて、分からなくなった。
夫は、何を、言っていたのか。
まあ、その。
その先に、夫は、何を、置いていたのか。
お茶、だったのか。
疲れた、だったのか。
分からない。
分からないのは、夫が、言わなかったからだ。
言わない先を、こちらが、埋めた。
埋めたものは、こちらの、言葉だ。
こちらの言葉に、夫は、動いた。
動いたのは、それでよかったからか。
それでも、よかったからか。
どちらかは、もう、聞けない。
聞けないまま、四十年ぶんの、閉じた形が、残っている。
残っている形は、全部、こちらの形だ。
夫の形は、一つも、無い。
無いことに、夫が死んで、気づいた。
第三章 謄写版
若いころ、学校で、謄写版を、刷った。
ロウの原紙を、切って、刷る。
原紙が、古くなると、線が、欠ける。
欠けた線の、プリントを、生徒に、配った。
生徒は、読めた。
読めたのは、目が、閉じるからだ。
欠けたところを、目が、勝手に、つなぐ。
つないで、字にする。
字にした字が、原紙の字と、同じかどうかは、分からない。
分からないが、読める。
読めるので、誰も、困らなかった。
夫の言葉は、古い原紙だった。
欠けだらけの線だった。
こちらは、四十年、目で、閉じた。
閉じて、読んだ。
読めたので、困らなかった。
困らないので、原紙を、見なかった。
原紙には、何が、切ってあったのか。
見なかった。
見ないで、閉じた字を、四十年、読んだ。
読める字は、読みやすかった。
読みやすいので、疑わなかった。
閉じた字は、こちらの字だ。
こちらの目が、作った。
作った字を、夫の字だと、思っていた。
夫の字は、原紙にある。
原紙は、夫の中にある。
夫は、いない。
原紙は、見られない。
見られないまま、こちらの字だけが、残った。
四十年ぶん、残った。
第四章 夫の側
夫は、なぜ、言い切らなかったのか。
考えた。
言い切る前に、こちらが、閉じたからだ。
まあ、その、と言うと、こちらが、お茶ね、と言う。
言われたら、続きを、言わなくていい。
言わなくていいので、言わなかった。
言わないので、こちらは、また、閉じた。
閉じるので、夫は、また、言わなかった。
四十年、そうだった。
線を欠けさせたのは、こちらかもしれない。
夫は、最初は、言い切っていたのかもしれない。
言い切る前に、閉じられて、途中で、やめた。
やめる癖が、ついた。
ついた癖が、まあ、その、になった。
まあ、その、を、こちらは、夫の癖だと、思っていた。
夫の癖ではなく、こちらの目が、作った癖だ。
目が、早く、閉じた。
閉じられた人は、線を、引かなくなる。
引かなくなった線を、こちらは、欠けていると、思った。
欠けていたのではない。
引く前に、閉じられていた。
四十年、閉じていた。
閉じるのが、こちらの、することだった。
することが、夫の線を、短くした。
短くなった線を、また、閉じた。
閉じるほど、短くなった。
最後は、まあ、その、だけになった。
なったのを、夫の癖と、呼んでいた。
呼んでいたものが、こちらの、四十年だった。
第五章 娘
娘が、四十だ。
娘が、言った。
お母さん、私の話、最後まで、聞いてないよね。
こちらは、驚いた。
驚いて、聞いた。
どういうこと。
娘は、言った。
途中で、分かった、って顔する。
分かった顔して、答える。
答えが、合ってるときも、あるけど。
合ってないときも、ある。
合ってないとき、言い直すの、面倒だから、そのままにしてた。
小さいときから、ずっと。
ずっと、と、娘は、もう一度、言った。
こちらは、黙った。
黙って、思った。
娘にも、していた。
夫にだけでは、なかった。
娘の線も、途中で、閉じていた。
閉じて、合っていないときも、あった。
あっても、娘は、言い直さなかった。
夫と、同じだ。
夫も、言い直さなかった。
言い直さない人が、二人、家にいた。
二人とも、こちらが、閉じるので、言い直さなかった。
娘に、言った。
最後まで、聞く。
娘は、笑った。
笑って、言った。
無理しなくていいよ。
こちらは、言った。
無理する。
娘は、少し、驚いた顔をした。
驚いてから、話した。
最後まで、話した。
こちらは、最後まで、聞いた。
途中で、閉じたくなった。
閉じないで、聞いた。
聞き終わると、娘の話は、こちらが閉じていたはずの形と、違っていた。
違うところで、終わった。
終わったところが、娘の、原紙だった。
初めて、見た。
四十年で、初めて、原紙を、見た。
エピローグ
夫の原紙は、もう、見られない。
見られないものを、四十年、閉じた字で、持っている。
持っている字は、こちらの字だ。
こちらの字を、夫の字として、持っていた。
持ち方を、変える。
こちらの字だと、知って、持つ。
知って持つ字は、少し、違って、見える。
夫が、何を、置いていたかは、分からない。
分からないところを、閉じない。
閉じないで、欠けたまま、持つ。
欠けたまま持てるように、なった。
なったのは、娘の原紙を、見たからだ。
娘は、いま、最後まで、話す。
こちらは、最後まで、聞く。
聞くあいだ、目が、閉じそうになる。
閉じそうになるのを、開けている。
開けているのは、疲れる。
疲れるほど、四十年、楽をしていた。
開けていると、娘の線が、伸びる。
伸びた線は、こちらの閉じた形の、外に、出る。
外に出た線を、初めて、見ている。
夫の線も、外に、出ていたはずだ。
出る前に、閉じた。
閉じた四十年を、いまは、開けたまま、持つ。
まあ、その。
その先を、置かない。
置かないで、待つ。
待っても、来ない。
来ないものを、来ないまま、持つ。
欠けた線のまま。
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