門
振り向かなかったこと

朗読で聴く
第一章 最後の日
六十五になった。
六十で、工場を、やめた。
三十五年、かよった。
自転車で、十二分。
門を、くぐって、更衣室に、行った。
更衣室で、白い作業着に、着替えた。
着替えて、検査の、机に、座った。
部品の傷を、見る仕事だ。
一日に、二千個、見た。
三十五年で、数えきれない。
数えきれないものを、数えないで、見た。
最後の日も、同じだった。
二千個、見た。
見て、机を、拭いた。
拭いて、作業着を、返した。
返して、私服で、門まで、歩いた。
門の内側で、守衛が、頭を、下げた。
三十五年、毎朝、挨拶した人だ。
頭を、下げ返した。
下げ返して、門を、出た。
出て、自転車に、乗った。
乗って、走った。
振り向かなかった。
振り向けば、門が、見える。
門は、もう、こちらのものではない。
入れない門を、見ることになる。
見たくなかった。
見たくないので、前を、見た。
前には、いつもの道が、あった。
十二分の道だ。
十二分、振り向かなかった。
家に、着いた。
着いてから、振り向いても、門は、無い。
無いところで、振り向いた。
それで、終わった。
第二章 開いている門
やめてから、五年、たつ。
五年、工場の前を、とおっていない。
通る道は、ある。
買い物に、行く道だ。
少し、回れば、工場の前を、通る。
回らないで、行く。
行かない理由は、門だ。
門を、見ると、閉まっているか、開いているかが、分かる。
分かると、どちらでも、困る。
閉まっていれば、こちらが、いないからだと、思う。
開いていれば、こちらがいなくても、開いているのだと、思う。
どちらも、見たくない。
見なければ、門は、あの日のままだ。
あの日、門は、開いていた。
開いている門を、出た。
出て、振り向かなかった。
振り向かなかったので、門は、開いたままだ。
こちらの中で、開いたままだ。
五年、開いている。
開いている門を、持っている。
持っているものは、あの日の、門だ。
本当の門は、たぶん、毎晩、閉まる。
閉まって、朝、開く。
こちらのいない朝に、開く。
それは、知っている。
知っているが、見ていない。
見なければ、知らないのと、同じにできる。
同じにして、五年、来た。
第三章 振り向く人
夫は、違った。
夫も、同じ工場に、いた。
二年、先に、やめた。
やめた日、夫は、門を出て、振り向いた。
振り向いて、しばらく、立っていた。
立っている夫を、こちらは、門の内側から、見た。
まだ、二年、残っていた。
残っている側から、振り向く夫を、見た。
夫は、門を、見ていた。
守衛が、もう一度、頭を、下げた。
夫も、下げた。
下げて、帰った。
帰ってから、夫は、工場の話を、しなくなった。
しなくなったのは、見たからだと、思う。
振り向いて、門を、見た。
見た門は、閉まる門だ。
閉まる門を、見た人は、終わる。
終わったので、話さない。
こちらは、見なかった。
見なかったので、終わっていない。
終わっていないので、工場の話を、する。
夫に、する。
夫は、聞いている。
聞いて、何も、言わない。
言わないのは、夫の門が、閉まっているからだ。
閉まっている人に、開いている門の話を、している。
五年、している。
夫は、一度だけ、言った。
行ってみれば。
こちらは、行かなかった。
行けば、閉まる。
第四章 見ないこと
振り向かなかったことを、こちらは、強さだと、思っていた。
夫は、振り向いた。
こちらは、振り向かなかった。
振り向かないほうが、強い。
そう、思っていた。
五年、思っていた。
違うと、分かったのは、先月だ。
買い物の、帰りに、道を、間違えた。
間違えて、工場の前に、出た。
出てしまった。
門が、あった。
開いていた。
昼だ。
トラックが、入っていた。
守衛は、知らない人だった。
知らない人が、こちらを、見た。
見て、何も、しなかった。
こちらは、通り過ぎた。
通り過ぎて、少し行って、止まった。
止まって、思った。
開いていた。
こちらがいなくても、開いていた。
分かっていたことだ。
分かっていたことを、見た。
見ると、違った。
開いている門は、こちらの門ではなかった。
工場の門だった。
三十五年、こちらの門だと、思っていたものが、工場の門だった。
工場の門は、誰が出ても、開く。
開くものを、こちらは、閉めないために、見なかった。
閉まらない。
こちらが見ても、見なくても、閉まらない。
閉まらないものを、五年、守っていた。
守っていたのは、門ではない。
こちらの中の、門だ。
中の門は、見た瞬間に、閉まった。
閉まって、楽になった。
楽になったことに、驚いた。
振り向かないのは、強さではなかった。
見たら、終わるからだった。
終わらせないために、見なかった。
夫は、終わらせるために、見た。
どちらが強いかは、分からない。
分からないが、夫のほうが、五年、早く、楽になった。
第五章 夫に
家に、帰って、夫に、言った。
工場の前、通った。
夫は、こちらを、見た。
見て、聞いた。
どうだった。
こちらは、言った。
開いてた。
夫は、うなずいた。
うなずいて、言った。
開いてるよ。
そりゃ、開いてる。
そう、言って、笑った。
笑われて、こちらも、笑った。
笑って、思った。
夫は、五年前から、知っていた。
知っていて、行ってみれば、と、一度だけ、言った。
一度だけだった。
二度は、言わなかった。
言わないで、開いている門の話を、五年、聞いた。
聞いている夫の門は、閉まっていた。
閉まっている人が、開いている人の話を、聞いていた。
聞いて、待っていた。
こちらが、見に行くのを。
行かなかったので、道を、間違えるまで、待った。
間違えたのは、たまたまだ。
たまたまで、五年が、閉まった。
閉まったあとで、夫と、工場の話を、した。
初めて、二人で、した。
夫の門も、こちらの門も、閉まっている。
閉まっているもの同士で、話せた。
開いているうちは、話せなかった。
こちらだけが、開いていた。
開いている人と、閉まっている人は、同じ話が、できない。
できないことを、五年、していた。
夫は、付き合った。
付き合って、待った。
振り向かなかった人を、振り向いた人が、待っていた。
エピローグ
買い物の道を、変えた。
工場の前を、通る道にした。
毎回、門を、見る。
見て、通り過ぎる。
開いている日も、閉まっている日も、ある。
どちらでも、いい。
どちらでも、いいと、思えるまで、五年、かかった。
五年、振り向かないで、持っていた門は、もう、無い。
無くなって、本当の門が、ある。
本当の門は、工場のものだ。
こちらのものだったことは、一度も、無い。
無いものを、あの日、振り向かないで、守った。
守ったつもりで、持っていた。
持っていたものを、道を間違えて、落とした。
落として、軽い。
軽いので、通る。
通って、見る。
見ても、何も、起きない。
起きないことが、分かるまで、見なかった。
見ない五年と、見る五年目。
見る側に、いま、いる。
夫と、同じ側だ。
同じ側で、同じ道を、通る。
通って、門を、見て、帰る。
帰って、工場の話は、もう、しない。
しないで、済む。
済むようになった。
門は、開いている。
工場の門だ。
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