玄関の背中
振り向かなかったこと

朗読で聴く
第一章 出た朝
六十五になった。
二十歳で、家を出た。
四十五年前の、春の朝だ。
東京の、会社に、決まっていた。
母は、反対しなかった。
反対しないで、黙っていた。
黙っている母を、あの朝、玄関で、見た。
玄関に、立っていた。
こちらは、靴を、履いた。
履いて、戸を、開けた。
開けて、出た。
出てから、道を、歩いた。
駅まで、十五分だ。
十五分、振り向かなかった。
一度も、振り向かなかった。
振り向けば、母が、玄関に、立っている。
立っているのを、見れば、戻ってしまう。
戻ると、思った。
思ったので、前だけを、見た。
前には、道があった。
道の先に、駅があった。
駅に着いて、電車に、乗った。
乗ってから、振り向いた。
窓の外に、町が、あった。
母は、いなかった。
いないところで、振り向いた。
それが、あの朝の、振り向き方だった。
四十五年、そのことを、持っている。
持っているのは、振り向かなかった、ということだ。
母の顔を、あの朝、見なかった。
玄関に立っている母を、背中で、置いてきた。
第二章 母の話
母は、三年前に、九十で、死んだ。
葬式のあと、妹が、言った。
お姉ちゃんが、家を出た朝の話、お母さん、毎年してた。
こちらは、聞いた。
どんな話。
妹は、言った。
振り向かなかった、って。
道の角まで、ずっと、見てたけど、一度も、振り向かなかった、って。
それだけ。
毎年、春になると、言ってた。
言ってから、しばらく、黙るんだって。
こちらは、黙った。
黙って、考えた。
母は、角まで、見ていた。
玄関から、道の角まで、見える。
見える距離を、こちらは、振り向かないで、歩いた。
歩いている背中を、母は、見ていた。
角を、曲がるまで。
曲がったあと、母は、戸を、閉めただろう。
閉めて、四十五年、言っていた。
振り向かなかった、と。
妹に、聞いた。
怒ってた。
妹は、首を、振った。
違う。
嬉しそうだった。
あの子は、振り向かなかった、って。
自慢みたいに。
こちらは、意味が、分からなかった。
振り向かなかったことを、なぜ、母が、喜ぶのか。
分からないまま、家に、帰った。
第三章 まっすぐ
あの朝のことを、思い出した。
なぜ、振り向かなかったか。
戻ってしまうからだ。
母の顔を、見れば、行けなくなる。
行けなくなるのが、怖かった。
怖かったので、前だけを、見た。
前だけを見る人は、後ろが、見えない。
後ろに、何があるかを、知らない。
知らないで、四十五年、来た。
後ろには、母が、立っていた。
角まで、見ていた。
見ているのを、こちらは、知らなかった。
知らないで、角を、曲がった。
知らなかったのは、振り向かなかったからだ。
振り向かなかった人は、見られていたことを、知らない。
知らないまま、見られていた。
母は、背中を、見ていた。
背中は、母を、見ていない。
四十五年、その形だった。
母が、死んで、妹から、聞いて、初めて、形が、分かった。
まっすぐ、前を、見ていた。
前を見ている人の、まっすぐな背中を、母は、見ていた。
まっすぐだったから、母は、喜んだ。
振り向けば、背中は、曲がる。
曲がった背中を、母は、見たくなかったのかもしれない。
見たくなかったものを、こちらは、見せなかった。
見せないつもりは、無かった。
無かったが、見せなかった。
振り向かなかったことが、母への、最後の、まっすぐだった。
第四章 見なかった顔
母の顔を、あの朝、見なかった。
それは、変わらない。
変わらないことを、四十五年、悔いていた。
悔いていたのは、こちらだけだった。
母は、悔いていなかった。
悔いないで、毎年、話した。
話した相手は、妹だ。
こちらには、一度も、言わなかった。
電話でも、帰省しても、言わなかった。
言わなかったのは、なぜか。
言えば、こちらが、悔いると、思ったからかもしれない。
思って、言わなかったのかもしれない。
母の考えは、分からない。
分からないが、母は、四十五年、言わなかった。
言わないで、妹に、言った。
妹は、覚えていた。
覚えていて、葬式のあとに、こちらに、渡した。
渡されたものは、母の、見ていたものだ。
母が、玄関から、見ていた背中。
こちらは、それを、持っていなかった。
持っていたのは、振り向かなかった、という、こちらの側だけだ。
こちらの側と、母の側で、同じ朝が、二つあった。
こちらの側は、悔いだった。
母の側は、自慢だった。
同じ背中を、二人が、逆に、持っていた。
四十五年、逆のまま、持っていた。
母が死んで、妹が、二つを、合わせた。
合わせると、背中が、一つになる。
一つの背中を、母は、見ていて、こちらは、見せていた。
見せていたことを、知らなかった。
知らないで、見せていた。
知らないで見せたものが、母の、いちばんの話だった。
第五章 娘
娘が、三十だ。
去年、家を、出た。
出る朝、こちらは、玄関に、立った。
立って、娘を、見た。
娘は、靴を、履いた。
履いて、戸を、開けた。
開けて、出た。
こちらは、玄関から、道を、見た。
娘の背中が、道を、歩いた。
角まで、十五分ではなく、五分間だ。
五分間、見ていた。
五分は、長かった。
娘は、振り向かなかった。
一度も、振り向かなかった。
角を、曲がった。
曲がって、いなくなった。
こちらは、戸を、閉めた。
閉めて、思った。
振り向かなかった。
嬉しかった。
なぜ、嬉しいのかは、そのとき、分からなかった。
分からないまま、嬉しかった。
妹の話を、聞いて、分かった。
母も、同じだった。
振り向かない背中は、まっすぐだ。
まっすぐな背中は、行ける。
行ける背中を、見送った。
見送った人は、嬉しい。
振り向かれたら、行けないことが、分かってしまう。
分かってしまうものを、見なくて、済んだ。
済んだので、嬉しかった。
母も、そうだった。
そうだったと、いま、分かる。
娘に、この話は、しない。
しないで、妹に、話す。
毎年、春に。
あの子は、振り向かなかった、と。
エピローグ
玄関に、立ってみた。
母が、立っていた場所だ。
同じ家では、無い。
同じ場所では、無いが、玄関だ。
玄関から、道を、見た。
角まで、見える。
角の先は、見えない。
角まで、背中が、歩いて行く。
こちらの背中だ。
四十五年前の。
見ている母の目で、見た。
まっすぐだった。
曲がらなかった。
曲がらないで、角を、曲がった。
母は、それを、見て、戸を、閉めた。
閉めた戸の内側で、四十五年、持っていた。
こちらは、外側で、四十五年、持っていた。
戸の、両側だ。
両側にあるものが、同じ朝だった。
母は、いない。
いない母の場所に、立っている。
立って、見送る側の目を、持っている。
持って、娘の背中を、見た。
娘も、振り向かなかった。
振り向かない娘の背中は、まっすぐだった。
まっすぐな背中を、こちらが、持っている。
母から、渡された、持ち方で。
振り向かなかった子は、振り向かなかった子を、見送る。
見送って、戸を、閉める。
閉めた内側で、話す。
あの子は、振り向かなかった。
嬉しそうに。
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