兄の手紙
座ったままでいたこと

朗読で聴く
第一章 立つ人と座る人
六十七になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
父は、三十年前に、死んだ。
母は、十年前に、死んだ。
兄は、去年、死んだ。
子どものころの、食卓を、覚えている。
父が、母を、怒鳴った。
週に、二度か、三度。
理由は、何でもよかった。
塩の量。
皿の置き方。
母の、返事の遅さ。
父が、怒鳴ると、兄が、立った。
兄は、こちらより、四つ、年が上だ。
立って、父の前に、行った。
行って、何かを、言った。
言うと、父は、兄を、殴った。
殴られて、兄は、また、立った。
毎回、そうだった。
こちらは、座っていた。
食卓の、自分の席に、座っていた。
母の、隣の席だ。
座って、皿を、見ていた。
皿の上の、何も、動かなかった。
動かない皿を、見ていた。
皿を見ていれば、部屋の音が、少し、遠くなった。
遠くしたくて、見ていた。
兄が、殴られる音が、した。
音がしても、座っていた。
立ったことが、無い。
一度も、無い。
十八まで、一度も、立たなかった。
立たない自分を、臆病だと、思っていた。
兄を、英雄だと、思っていた。
五十年、そう、思っていた。
第二章 兄
兄は、二十で、家を出た。
出てから、遠くにいた。
年に、一度、電話が、来た。
こちらの、誕生日だった。
電話で、兄は、母のことを、聞いた。
母は、元気か。
父は、まだ、怒鳴っているか。
こちらは、答えた。
元気。
怒鳴っている。
兄は、黙った。
黙ってから、言った。
おまえが、いてくれて、よかった。
こちらは、意味が、分からなかった。
いるだけだ。
座っているだけだ。
それを、よかった、と、兄は、言った。
言われるたびに、恥ずかしかった。
兄は、立った人だ。
こちらは、座った人だ。
座った人が、いてくれてよかった、と言われる理由が、無い。
無いと、思っていた。
思っていたので、聞き返さなかった。
聞き返さないまま、兄は、死んだ。
葬式のあと、兄の妻から、手紙が、来た。
兄が、こちらに、と、残していたものだ。
封を、切った。
兄の字だった。
第三章 手紙
手紙は、短かった。
こう、あった。
おまえは、自分を、臆病だと、思っているだろう。
俺が立って、おまえが座っていたから。
違う。
俺が立つと、父は、俺を、殴った。
殴っている間、母は、一人になった。
一人になった母は、席を、立とうとした。
台所に、逃げようとした。
逃げれば、次は、母が、殴られた。
逃げなかったのは、隣に、おまえが、座っていたからだ。
おまえが、座っていると、母は、座っていられた。
誰かが、座っていないと、食卓は、無くなる。
食卓が、無くなれば、母の、いる場所が、無くなる。
おまえが、食卓を、残した。
俺は、立って、母を、一人にした。
おまえは、座って、母を、一人にしなかった。
俺は、それを、二十で、家を出てから、分かった。
出たあと、食卓に、座っているのは、おまえだけだった。
おまえだけが、母の、隣にいた。
いてくれて、よかった。
そう、書いてあった。
読んで、座っていた。
手紙を、食卓に、置いた。
座って、しばらく、動けなかった。
動けないのは、五十年が、裏返ったからだ。
第四章 反対
座ったままでいたのは、こちらだ。
それは、変わらない。
変わったのは、座っていたことの、意味だ。
こちらは、それを、臆病と、呼んでいた。
兄は、それを、母の隣と、呼んでいた。
同じことを、二人で、別の名前で、呼んでいた。
五十年、別の名前だった。
こちらは、立った兄を、見上げていた。
見上げて、自分を、下に、置いていた。
兄は、座っているこちらを、見ていた。
見て、自分が、できなかったことを、こちらが、していると、思っていた。
兄が、できなかったこと。
母の、隣に、いること。
兄は、立った。
立った人は、隣に、いられない。
前に、行く。
前に行った人は、母の、隣から、いなくなる。
いなくなったところに、こちらが、いた。
いたのは、座っていたからだ。
座っていたのは、怖かったからだ。
怖くて、座っていた。
怖くて座っていた子が、母の隣を、埋めていた。
埋めるつもりは、無かった。
無いのに、埋まっていた。
兄は、それを、見ていた。
見て、家を出てからも、電話で、確かめていた。
おまえは、まだ、座っているか。
いてくれて、よかった。
あれは、それを、聞いていたのだ。
こちらは、恥ずかしがって、聞き返さなかった。
聞き返していれば、五十年前に、分かった。
分からないまま、座っていた。
座っていたことは、同じだ。
同じことが、兄の目には、逆に、見えていた。
兄の目のほうが、正しかったのかどうかは、分からない。
分からないが、兄は、そう、見ていた。
見ていた人が、いた。
見ていた人が、いなくなって、初めて、見られていたと、知った。
座っているこちらを、見ていた人が、家の外に、いた。
第五章 母の席
母が、死ぬ前に、言ったことを、思い出した。
病院で、こちらに、言った。
あなたは、いつも、隣にいたね。
そのときは、そうかな、と、答えた。
いただけだ。
座っていただけだ。
そう、思った。
母は、続けた。
隣に、誰かがいると、座っていられるのよ。
こちらは、うなずいた。
うなずいて、意味を、聞かなかった。
いま、分かる。
母も、同じことを、言っていた。
兄と、同じことを。
二人が、同じことを、言っていた。
こちらだけが、違うことを、思っていた。
違うことを、五十年、誰にも、確かめなかった。
臆病。
その一つの名前で、五十年、座っていた。
名前は、こちらが、つけた。
つけた名前を、二人は、使わなかった。
使わない二人が、死んで、名前だけが、こちらに、残った。
残った名前を、手紙が、はがした。
はがれたところに、別の名前が、あった。
母の隣。
それが、こちらの、席の名前だった。
五十年、自分の席の名前を、知らなかった。
知らないで、座っていた。
座っていたことは、正しかったのか。
分からない。
分からないが、母は、座っていられた。
それだけは、母が、言った。
言った母は、いない。
いない母の、言葉を、いま、聞いている。
聞いて、座っている。
エピローグ
娘が、四十だ。
娘と、食卓に、座る。
娘は、こちらの、隣に、座る。
子どものときから、そこだ。
向かいではなく、隣だ。
なぜ、隣に座るのか、聞いたことが、無い。
聞いてみた。
娘は、言った。
隣のほうが、落ち着くから。
それだけだった。
それだけで、いい。
いい理由を、娘は、知らなくていい。
こちらが、母の隣に、座っていたように、娘は、こちらの隣に、座る。
座る娘の、隣で、こちらは、座っている。
食卓が、ある。
誰かが、座っているから、ある。
ある食卓に、明日も、座る。
立たない。
立たないことを、いまは、名前で、呼べる。
隣にいること。
兄が、つけた名前だ。
兄は、立った。
こちらは、座った。
二人で、一つの食卓を、持っていた。
兄が、いなくなって、こちらだけが、持っている。
持ったまま、座る。
娘の隣で。
座っていられるように。
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