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隣の席

座ったままでいたこと

隣の席

朗読で聴く

第一章 帳簿

六十八になった。

六十で、会社を、やめた。

三十年、同じ部屋で、働いた。

経理の、部屋だ。

机が、六つ。

隣の机に、三十年、一人の男が、いた。

同じ年だ。

同じ年に、入った。

男は、口が、うまくなかった。

うまくないので、課長に、叱られた。

叱られ方が、ひどかった。

部屋中に、聞こえる声で、叱られた。

立たされて、叱られた。

週に、一度は、あった。

多い月は、三度、あった。

三十年で、千五百回ほどだ。

千五百回、こちらは、隣の席に、座っていた。

座って、帳簿を、見ていた。

帳簿の数字が、頭に、入らなかった。

入らないが、見ていた。

見ていることが、こちらの、することだった。

声が、頭の上を、通った。

通るあいだ、顔を、上げなかった。

上げれば、目が、合う。

課長とも、男とも、合う。

合わせたくなかった。

合わせたくないので、帳簿を、見た。

終わると、男は、座った。

座って、しばらく、動かなかった。

動かない男の、横で、こちらは、帳簿を、めくった。

めくる音だけが、した。

三十年、めくった。

第二章 立たなかった

一度も、立たなかった。

立って、言えることが、あった。

その帳簿は、こちらが、渡したものです。

間違いは、こちらの、数字です。

あった。

半分は、あった。

叱られていることの、半分は、こちらの、間違いだった。

男は、それを、言わなかった。

言わないで、叱られた。

叱られる男の横で、こちらは、座っていた。

立てば、こちらの番になる。

こちらの番にならないために、座っていた。

座っていれば、帳簿の中だ。

帳簿の中には、課長も、男も、いない。

数字だけが、ある。

数字を、見ていた。

見ているふりを、していた。

ふりは、三十年、続けられる。

続けた。

男は、一度も、こちらを、責めなかった。

叱られたあとで、こちらに、何も、言わなかった。

言わないで、次の日も、隣に、座った。

隣に座る男が、こちらの、間違いを、黙って、持っていた。

持っている男の横で、こちらは、黙って、座っていた。

二人とも、黙っていた。

黙っている理由が、違った。

男は、こちらを、守るために、黙った。

こちらは、自分を、守るために、座った。

同じように黙って、逆のことを、していた。

第三章 喫茶店

やめてから、八年、会わなかった。

先月、町で、会った。

男は、少し、痩せていた。

喫茶店に、入った。

向かい合って、座った。

三十年、隣だった男と、初めて、向かい合った。

向かい合うと、顔が、老けていた。

こちらも、同じだろう。

男は、コーヒーを、頼んだ。

こちらも、頼んだ。

来るまで、黙っていた。

黙っている間に、思った。

言うなら、いまだ。

言った。

三十年、座っていた。

男は、こちらを、見た。

こちらは、続けた。

叱られているとき、隣で、座っていた。

半分は、俺の、間違いだった。

立たなかった。

男は、黙って、聞いていた。

聞いてから、言った。

知ってた。

知ってて、言わなかった。

こちらは、聞いた。

なぜ。

男は、コーヒーを、一口、飲んだ。

飲んで、言った。

立たれたら、俺が、惨めだった。

座っててくれて、よかった。

こちらは、意味が、分からなかった。

男は、続けた。

あんたが、立って、俺の代わりに、叱られたら、俺は、かばわれた人間になる。

かばわれる人間は、あの部屋で、いちばん、下だ。

座っててくれたから、俺は、叱られるだけの、人間でいられた。

叱られるだけなら、まだ、俺の、仕事だ。

そう、言った。

言って、コーヒーを、飲んだ。

第四章 座っていたこと

喫茶店を、出て、歩いた。

歩きながら、考えた。

男の言うことは、本当か。

本当だとしても、こちらが、そのために、座っていたわけではない。

こちらは、自分のために、座っていた。

男が、それを、自分のために、使った。

使えるものを、使った。

三十年、使った。

使われていたことを、こちらは、知らなかった。

知らないで、恥じていた。

恥じているあいだ、男は、それを、仕事の、一部にしていた。

叱られる仕事。

隣が、座っている仕事。

二つで、一つだった。

こちらが、立てば、二つとも、無くなった。

無くならなかったのは、こちらが、座っていたからだ。

そう、男は、言う。

言われても、こちらは、楽に、ならない。

ならないのは、座っていた理由が、違うからだ。

理由が、違っても、座っていたことは、同じだ。

同じことが、二つの意味を、持っていた。

男は、いいほうを、持った。

こちらは、悪いほうを、持った。

三十年、別々に、持っていた。

喫茶店で、初めて、見せ合った。

見せ合って、どちらも、本当だった。

本当が、二つある。

二つあるものを、一つに、しなくていい。

しなくていいと、六十八で、思えた。

思えたので、少し、歩く速さが、変わった。

第五章 もう一度

男から、電話が、来た。

また、コーヒーを、と。

行った。

同じ喫茶店で、同じ席に、座った。

向かい合った。

男が、言った。

あのとき、あんたが、帳簿をめくる音が、聞こえてた。

こちらは、驚いた。

男は、続けた。

叱られてる間、あの音だけ、聞いてた。

あの音が、してる間は、部屋が、ふつうだった。

俺だけが、ふつうじゃないんじゃなくて、部屋は、ふつうに、動いてた。

あの音で、それが、分かった。

だから、終わったら、座れた。

こちらは、何も、言えなかった。

帳簿を、めくっていた。

見ているふりで、めくっていた。

ふりの音を、男は、聞いていた。

聞いて、それで、座れていた。

こちらの、いちばん、恥じていたものが、男の、いちばん、要るものだった。

三十年、要るものだった。

要るものを、こちらは、恥じながら、出していた。

出していたことは、変わらない。

恥じていたことも、変わらない。

変わったのは、それが、届いていたことだ。

届いていた先が、あった。

隣の席に、あった。

座っている人の、隣に、座っている人が、いた。

二人で、座っていた。

どちらも、立たなかった。

立たない二人が、三十年、隣にいた。

いたことを、いま、向かい合って、話している。

話せるのは、座っていたからだ。

立っていたら、たぶん、いまは、いない。

エピローグ

家に、帰った。

机の、引き出しに、古い帳簿が、一冊、ある。

やめるとき、もらってきた。

開いて、めくった。

音が、した。

あの音だ。

三十年、隣に、届いていた音だ。

届いていたことを、知らないで、出していた。

知って、めくると、同じ音が、違って、聞こえる。

恥の音だった。

いまは、二つの音だ。

恥と、ふつう。

どちらも、本当だ。

両方、聞こえる。

両方、聞こえるまで、六十八年、かかった。

かかったが、聞こえた。

帳簿を、閉じた。

閉じて、引き出しに、戻した。

戻すとき、思った。

来月も、コーヒーを、飲む。

向かい合って、飲む。

三十年、隣で、飲まなかった分だ。

分は、まだ、ある。

あるうちに、飲む。

座って、飲む。

座っているのは、いまは、恥じることではない。

向かい合って、座っている。

それが、できるようになった。

六十八で。

ソウルミッション358

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