食卓の高さ
座ったままでいたこと

朗読で聴く
第一章 あの夜
六十三になった。
娘は、四十二だ。
二十年前の、秋の夜のことを、いまも、持っている。
娘が、結婚したい人を、連れてくると、言った。
夫は、会う前から、反対した。
相手の仕事が、気に入らなかった。
娘は、夜、食卓で、夫と、言い合った。
夫は、立っていた。
娘も、立っていた。
二人は、食卓を挟んで、立って、言い合った。
こちらは、座っていた。
食卓の、いつもの席に、座っていた。
お茶を、前に、置いて。
湯のみが、冷めていくのを、見ていた。
冷めても、飲まなかった。
飲むと、動いたことになる。
二人の声が、上から、来た。
こちらの目の高さに、二人の胸があった。
顔は、見上げないと、見えなかった。
見上げなかった。
お茶を、見ていた。
言い合いは、一時間、続いた。
一時間、座っていた。
夫が、こちらを、見た。
何か言え、という目だった。
娘も、こちらを、見た。
同じ目だった。
二人の目に、こちらは、お茶で、答えた。
一度も、立たなかった。
娘が、泣いて、部屋に、行った。
夫が、黙って、寝た。
こちらは、お茶を、流しに、捨てた。
捨てるときに、初めて、立った。
立ったのは、お茶のためだった。
第二章 立たなかった理由
なぜ、立たなかったか。
二十年、考えている。
立てば、どちらかの側に、立つことになる。
娘の横に、立てば、娘の側だ。
夫の横に、立てば、夫の側だ。
どちらにも、立ちたくなかった。
立ちたくないので、座っていた。
座っていれば、どちらでもない。
どちらでもない場所が、食卓に、あると、思っていた。
自分の席が、それだと、思っていた。
そう、思っていた。
違った。
座っていることは、夫の側にいることだった。
夫は、この家の、あるじだった。
あるじに、逆らわない人は、あるじの側にいる。
こちらは、逆らわなかった。
逆らわないで、座っていた。
娘には、そう、見えた。
見えたはずだ。
娘は、一人で、立っていた。
二人と、向き合っていた。
立っている父と、座っている母。
二人だ。
こちらは、数に、入っていた。
入っていないつもりで、入っていた。
座っている人は、床が、見えない。
自分の足が、どこにあるかを、見ない。
見ないで、どこにも立っていないと、思う。
思っていた。
足は、夫の側の、床にあった。
第三章 娘の結婚
娘は、その人と、結婚した。
夫は、式に、出なかった。
こちらは、出た。
出たが、娘に、何も、言わなかった。
あの夜のことを、言わなかった。
娘も、言わなかった。
二十年、言っていない。
言わない二十年のあいだに、孫が、生まれた。
孫は、あの夜を、知らない。
知らない子が、あの食卓で、笑う。
娘は、いま、よく、帰ってくる。
孫を、連れてくる。
食卓に、座る。
あの夜と、同じ食卓だ。
同じ席に、こちらが、座る。
娘は、向かいに、座る。
あの夜、娘が、立っていたところだ。
座って、笑っている。
笑っている娘の、後ろに、あの夜の娘が、立っている。
こちらには、見える。
娘には、見えていないかもしれない。
見えていないなら、いい。
いいとは、思えない。
思えないので、持っている。
持っているものを、娘は、知らない。
知らないで、孫に、お茶を、渡している。
渡す手が、あの夜、握りしめていた手だ。
握りしめていたのを、こちらは、見ていた。
見ていて、座っていた。
座っていた席で、いま、孫を、抱いている。
同じ席だ。
席は、動いていない。
こちらも、動いていない。
動いていない二人が、同じ食卓で、二十年、お茶を、飲んだ。
第四章 選んだこと
立たなかったことを、こちらは、長く、弱さだと、思っていた。
立てなかった。
怖かった。
そう、思っていた。
六十を過ぎて、違うと、分かった。
立てなかったのではない。
立たなかった。
立たないことを、選んだ。
選んだのは、こちらだ。
弱かったのではなく、選んだ。
選んだものを、弱さと、呼んでいた。
呼んでいれば、責められない。
責められないように、呼んでいた。
二十年、呼んでいた。
やめた。
選んだのだ。
選んだ人は、責められる。
責められていい。
娘は、責めなかった。
責めないで、二十年、帰ってきた。
帰ってきて、あの席に、座った。
座る娘を、こちらは、あの席から、見た。
見るたびに、思った。
あの夜、立っていれば。
立っていれば、何が、変わったか。
夫は、変わらなかっただろう。
結婚も、変わらなかった。
変わったのは、一つだ。
一つしか、変わらない。
その一つを、娘は、二十年、持って、生きた。
娘が、一人で、立っていなかった。
それだけだ。
それだけを、こちらは、しなかった。
しなかったことを、選んだと、言える。
言えるようになるまで、二十年、かかった。
第五章 立つ
先月、娘が、来た。
孫は、連れてこなかった。
一人で、来た。
食卓に、座った。
座って、しばらく、話した。
話が、切れた。
切れたところで、こちらは、立った。
立って、娘の、横に、行った。
娘は、見上げた。
見上げる娘の顔が、あった。
二十年前、見上げなかった顔だ。
こちらは、言った。
あの夜、座ってた。
娘は、黙った。
黙ってから、言った。
覚えてる。
こちらは、言った。
立たなかった。
立てなかったんじゃなくて、立たなかった。
娘は、こちらを、見ていた。
見て、言った。
知ってた。
お母さんは、座ってる人だから。
娘の声は、責めていなかった。
責めないで、知っていた。
二十年、知っていた。
知っていて、帰ってきていた。
こちらは、娘の肩に、手を、置いた。
置いて、言った。
遅い。
娘は、言った。
遅いね。
遅いね、と、笑った。
笑って、それきりだった。
それきりで、いい。
いいと、言えるのは、娘が、笑ったからだ。
笑わなければ、いいとは、言えなかった。
言ったのは、こちらだ。
立って、言った。
二十年、座っていた席から、立った。
立った席が、後ろに、ある。
ある席に、また、座る。
座るが、一度、立った。
一度、立った人は、座っていても、立ったことがある。
二度目は、たぶん、要らない。
あることが、席の高さを、変えた。
エピローグ
夫は、五年前に、死んだ。
食卓の、夫の席は、空いている。
空いた席と、こちらの席と、娘の席。
三つある。
あの夜、三人は、立って、立って、座っていた。
いまは、空いて、座って、座っている。
座っている二人は、同じ高さだ。
同じ高さで、お茶を、飲む。
お茶の高さで、目が、合う。
合う目が、あの夜、無かった。
無かったものを、いま、持っている。
持っているのは、娘が、帰ってくるからだ。
帰ってくる人に、一度、立った。
一度で、いい。
いいとは、思わない。
思わないが、一度は、立った。
立ったことを、席が、覚えている。
席は、動かない。
動かない席の高さで、これからも、座る。
座って、娘を、待つ。
待つのは、座ってする。
座ってすることを、二十年、間違えていた。
待つことと、いることは、違う。
待つあいだ、床を、見ない。
見ないで、まっすぐ、向かいを、見る。
向かいに、娘が、座る。
座った娘と、同じ高さで、いる。
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