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父の版

裏返しに届いていたこと

父の版

朗読で聴く

第一章 ドント

六十八になった。

アメリカの、小さな町に、住んでいる。

父は、二十年前に、七十五で、死んだ。

父の言葉で、覚えているのは、一つだ。

ドント。

するな、だ。

木に登るな。

川に近づくな。

夜に出るな。

バイクに乗るな。

町を出るな。

全部、ドント、で始まった。

ドント、で始まらない言葉を、父から、聞いた記憶が、無い。

褒められたことも、無い。

抱きしめられたことも、無い。

父は、するな、と言う人だった。

するな、と言われて、こちらは、した。

木に登り、川に入り、夜に出て、バイクに乗った。

乗って、十八で、町を出た。

出るとき、父は、玄関に、立っていた。

立って、言った。

ドント。

行くな、だ。

こちらは、行った。

行ってから、五十年、父の言葉は、ドント、一つだった。

一つしか、持っていなかった。

持っている一つが、冷たかった。

冷たい一つを、五十年、持って、生きた。

父は、冷たい人だった。

そう、思っていた。

思って、父の葬式にも、遅れて、着いた。

第二章 兄

去年、兄が、死んだ。

兄は、町を、出なかった。

父の店を、継いで、七十まで、いた。

葬式で、兄の妻が、箱を、渡してきた。

兄が、あなたに、と言っていた、と。

箱の中は、紙だった。

父の字だ。

店の、注文の控えの、裏に、書いてある。

日付と、短い言葉。

最初の一枚は、こちらが、十八で、町を出た日だった。

こう、あった。

行った。

止められなかった。

あいつが、いちばん、心配だ。

次の一枚は、その、一か月後。

手紙が、来ない。

生きているか。

次。

兄に、聞いた。

元気らしい。

よかった。

紙は、二百枚ほど、あった。

二百枚、全部、こちらのことだった。

兄のことは、一枚も、無かった。

兄は、それを、三十年、持っていた。

持って、こちらに、渡さなかった。

渡さなかった理由は、兄が死んだので、聞けない。

聞けないが、分かる。

渡せば、こちらが、父を、恨めなくなる。

恨めなくなるのは、兄にとって、遅すぎた。

遅すぎることを、兄は、知っていて、死ぬ前に、渡した。

渡されたものを、読んだ。

読んで、ドント、の、裏側を、初めて、見た。

第三章 版

父は、リノリウムの版を、彫る人だった。

店の、包み紙の絵を、自分で、彫って、刷った。

子どものころ、彫るのを、横で、見た。

小さな刀で、板を、削る。

削ったところが、白く、出る。

残したところが、黒く、出る。

刷ると、左右が、逆になる。

父は、それを、知っていた。

知っていて、彫っていた。

彫るとき、父は、裏返しの字を、彫っていた。

店の名前を、逆さに、彫った。

刷ると、正しく、出た。

父は、版を、裏返しに、彫れる人だった。

彫れる人が、言葉では、そうしなかった。

心配、を、彫った。

そのまま、彫った。

裏返しにしないで、彫った。

刷ると、逆に、出る。

心配、が、逆に出ると、ドント、になる。

するな、になる。

こちらが、五十年、持っていたのは、その刷りだ。

父の版には、心配、と、あった。

紙には、するな、と、出ていた。

父は、刷りを、確かめなかった。

確かめる方法が、無かった。

こちらの中に、出るからだ。

こちらの中は、父には、見えない。

見えないまま、父は、二百枚、書いた。

書いたものは、版の側だ。

版の側を、父は、誰にも、見せなかった。

兄に、預けた。

預けられた兄は、三十年、持って、死んだ。

死ぬ前に、こちらに、渡した。

渡されて、こちらは、六十八で、版の側を、見た。

五十年、刷りだけを、持っていた。

第四章 反対

裏返しに、刷っていたのは、父だと、思った。

紙を、読んだ最初は、そう、思った。

父が、心配を、するな、に、裏返して、渡した。

渡し方が、下手だった。

そう、思った。

思って、二百枚を、もう一度、読んだ。

読んで、違うと、分かった。

父は、裏返して、いなかった。

父は、そのまま、言っていた。

するな、は、父の、心配の、そのままの形だ。

父の家では、心配は、するな、で、言うものだった。

父の父も、そう、言った。

父は、習ったとおりに、彫った。

彫ったものを、こちらが、刷った。

刷ったのは、こちらだ。

こちらの中で、裏返った。

するな、を、こちらは、冷たい、と、刷った。

嫌われている、と、刷った。

刷った紙を、五十年、持った。

持って、父を、恨んだ。

裏返しに、受け取っていたのは、こちらだ。

父ではない。

父の版を、見に行けば、分かった。

見に行かなかった。

行かないで、紙だけを、見た。

紙は、こちらの、刷りだ。

こちらの刷りを、父の版だと、思っていた。

五十年、思っていた。

思っていたあいだ、父は、二百枚、書いていた。

書いて、兄に、預けて、死んだ。

こちらは、葬式に、遅れた。

遅れたことも、たぶん、一枚に、ある。

探さなかった。

探すと、読んでしまう。

読むと、五十年が、全部、こちらの、刷り間違いになる。

なる。

なっていい。

間違えたのは、こちらだ。

第五章 息子

息子が、四十だ。

息子にも、言ってきた。

ドント。

父と、同じだ。

同じ言い方で、同じ心配を、言った。

言って、息子が、家を出るとき、玄関で、言った。

行くな。

息子は、行った。

こちらと、同じだ。

息子が、こちらの、するな、を、どう、刷ったか。

考えたことが、無かった。

二百枚を、読んで、考えた。

息子の中の刷りは、たぶん、こちらの中の刷りと、同じだ。

冷たい。

嫌われている。

そう、出ている。

出ているなら、こちらが、父と、同じことを、した。

父は、版の側を、紙に書いて、兄に、預けた。

こちらは、何も、書いていない。

書かないで、息子に、電話を、した。

電話で、言った。

するな、と、言ってきたのは、心配だったからだ。

息子は、黙った。

黙ってから、言った。

知ってた。

知ってたよ。

こちらは、驚いた。

驚いて、聞いた。

なぜ、分かった。

息子は、言った。

じいちゃんの、包み紙。

子どものころ、店で、もらった。

裏返しに彫った版を、見せてもらった。

刷ると、正しく出るって、教えてくれた。

だから、父さんの、するな、も、刷ったら、正しく出るんだと、思ってた。

息子は、父の版を、見ていた。

こちらが、見なかった版を、息子は、七つで、見ていた。

見ていたので、こちらの、するな、を、裏返さずに、刷った。

正しく、刷った。

正しく刷る方法を、父が、息子に、教えていた。

こちらには、教えなかった。

教えなかったのではない。

こちらが、横で、見ていなかった。

見ていたのは、彫る手だけで、版の意味は、見なかった。

エピローグ

父の版が、一枚、残っている。

店の、包み紙の版だ。

兄の箱に、紙と一緒に、入っていた。

店の名前が、裏返しに、彫ってある。

裏返しの字を、読んだ。

読める。

六十八で、初めて、読めた。

読めるようになったのは、二百枚を、読んだからだ。

二百枚は、父の、版の側だ。

版の側を、読んだ人間は、刷りを、裏返さずに、読める。

父の、するな、を、心配、と、読める。

五十年、遅い。

遅いが、読める。

読めたので、息子に、版を、送る。

送って、言う。

じいちゃんの、版だ。

おまえは、七つで、見た。

俺は、六十八で、見た。

同じ版だ。

同じ版を、息子は、先に、正しく、刷った。

こちらは、あとから、刷り直す。

刷り直しは、できる。

版が、残っているからだ。

残した父に、言うことは、一つだ。

ドント、で、始まらない、一つだ。

まだ、言い方を、探している。

探すあいだ、版を、持っている。

ソウルミッション358

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