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どっちでも

裏返しに届いていたこと

どっちでも

朗読で聴く

第一章 四十五年

七十になった。

妻は、去年の夏に、六十八で、死んだ。

結婚して、四十五年だった。

四十五年、妻に、同じ返事を、した。

いい。

どっちでも。

任せる。

三つだ。

晩の飯は、何がいい、と、聞かれて、いい、と言った。

どっちの色にする、と、聞かれて、どっちでも、と言った。

旅行は、どこに行く、と、聞かれて、任せる、と言った。

妻の、したいように、してほしかった。

こちらが決めると、妻の、したいことが、消える。

消したくなかった。

消さないために、決めなかった。

決めないのが、こちらの、譲り方だった。

四十五年、譲った。

譲っていると、思っていた。

妻は、聞くのを、やめなかった。

やめないで、四十五年、聞いた。

聞かれるたびに、三つの中から、一つ、言った。

言って、妻が、決めた。

決めたものに、こちらは、文句を、言わなかった。

言わないのも、譲り方だと、思っていた。

妻が、決めた飯を、食べた。

妻が、決めた色の、上着を、着た。

妻が、決めた町に、行った。

全部、妻のものだと、思っていた。

こちらのものは、無かった。

無いのが、いいと、思っていた。

妻に、渡したものだと、思っていた。

第二章 日記

妻が、死んで、机を、片付けた。

日記が、あった。

薄い帳面が、四十冊ほど。

一年に、一冊だ。

読むつもりは、無かった。

無かったが、一冊、開いた。

三十年前の、春だった。

こう、書いてあった。

今日も、どっちでも、と言われた。

この人は、私に、興味が、無い。

そこで、閉じた。

閉じて、しばらく、座っていた。

座ってから、別の一冊を、開いた。

十年前の、冬。

旅行の場所を、聞いた。

任せる、と言った。

どこでもいいのだ。

私と、行くところなら、どこでも。

どこでも、というのは、私が、どこにいてもいい、ということだ。

そう、書いてあった。

書いてあることが、こちらの、思っていたことと、逆だった。

こちらは、妻の、したいようにさせたくて、決めなかった。

妻は、決めないことを、興味が無いと、読んだ。

こちらは、譲った。

妻には、捨てられたように、届いていた。

四十五年、届いていた。

届いていた四十五年を、こちらは、譲った四十五年と、呼んでいた。

三つの返事の、全部が、そう、届いていた。

どっちでも、と言うたびに、届いていた。

届いたものを、妻は、日記に、書いた。

書いて、閉じて、次の日も、聞いた。

聞いて、また、どっちでも、を、受け取った。

第三章 版と刷り

こちらは、若いころ、印刷屋に、いた。

版を、組む仕事だ。

版は、裏返しに、組む。

刷ると、正しい向きに、出る。

組むときは、裏返しの字を、読む。

慣れると、裏返しのほうが、読みやすくなる。

こちらは、裏返しを、読む人間だった。

読む人間が、家では、版を、組んでいた。

譲る、という字を、組んだ。

組んで、妻に、刷った。

刷りは、逆に、出る。

譲る、が、逆に出ると、何になるか。

こちらは、考えなかった。

印刷屋では、考えた。

組んだ版が、刷りで、どう出るかを、必ず、確かめた。

確かめないと、刷り直しになる。

家では、確かめなかった。

家の刷りは、妻の中に、出る。

妻の中は、見えない。

見えないので、確かめられない。

確かめられないものは、無いことにした。

無いことにして、四十五年、版だけを、組んだ。

版には、譲る、とある。

妻の中には、逆の字が、あった。

興味が、無い。

その字を、妻は、四十冊、書いた。

四十冊が、こちらの、刷りだ。

刷り直しは、できない。

妻が、いない。

第四章 聞かれた理由

日記を、読んで、分かったことが、もう一つ、ある。

妻は、四十五年、聞くのを、やめなかった。

やめなかったのは、なぜか。

興味が無い、と、思っている相手に、なぜ、聞き続けたのか。

日記に、あった。

五年前の、秋。

今日も、聞いた。

どっちでも、と言われた。

それでも、聞く。

聞かなくなったら、終わりだから。

そう、書いてあった。

妻は、こちらが、いつか、決めると、思っていた。

思って、四十五年、聞いた。

聞くことが、妻の、譲らないところだった。

こちらは、決めないことで、譲った。

妻は、聞き続けることで、譲らなかった。

譲らなかった人に、譲っていた。

譲られた人は、譲られたことを、知らなかった。

知らないで、捨てられていると、思っていた。

思って、それでも、聞いた。

こちらは、聞かれるのが、ふつうだと、思っていた。

ふつうではなかった。

聞くたびに、妻は、賭けていた。

今日は、決めるかもしれない、と。

賭けて、負けて、日記に、書いた。

四十五年、負けた。

負けさせたのは、こちらだ。

譲るつもりで、負けさせた。

版と、刷りが、逆だった。

逆だと、知ったのは、刷りが、四十冊、積まれたあとだ。

第五章 息子

息子が、来た。

四十二だ。

法事の、料理の相談だ。

寿司か、仕出しか、と、聞かれた。

いい、と、言いかけた。

どっちでも、と、言いかけた。

止めた。

止めて、言った。

寿司が、いい。

母さんは、寿司が、好きだった。

息子は、少し、驚いた顔をした。

驚いてから、言った。

父さんが、決めるの、初めて、聞いた。

四十二年、聞いたことが、無かった。

息子も、裏返しを、持っていた。

持っていることを、いま、知った。

息子に、日記の話は、しなかった。

しないで、もう一つ、決めた。

花は、白がいい。

息子は、分かった、と言った。

言ってから、笑った。

笑って、帰った。

帰ったあと、思った。

決めるのは、簡単だった。

簡単なことを、四十五年、しなかった。

しなかったのは、譲るためだった。

譲るために、妻を、負けさせた。

負けさせたことを、妻には、もう、言えない。

言えないので、息子に、決める。

息子の中の刷りは、まだ、直せる。

直せるうちに、直す。

直し方は、決めることだ。

寿司が、いい。

白が、いい。

短い。

短いが、版と、同じ向きに、出る。

出るはずだ。

出たかどうかは、息子の中だ。

見えない。

見えないが、今度は、確かめる。

確かめ方は、聞くことだ。

妻が、四十五年、していたことだ。

エピローグ

法事の日、寿司が、来た。

白い花が、あった。

息子が、こちらに、聞いた。

父さん、お茶と、ビール、どっち。

ビール、と、言った。

息子が、笑った。

笑って、ビールを、置いた。

妻の写真の前にも、置いた。

妻が、生きていたら、聞いただろう。

どっち。

ビール、と、答えただろう。

答えなかった四十五年が、日記に、ある。

日記は、机に、戻した。

読み終えていない。

読み終えないで、いる。

全部、読むと、四十冊の刷りを、全部、受け取ることになる。

受け取るべきだと、思う。

思うが、一度に、受け取れない。

一年に、一冊、読む。

読むたびに、決める。

決めたことを、息子に、言う。

息子の刷りが、版と、同じ向きになるまで。

妻の刷りは、逆のまま、机にある。

逆のまま、置いておく。

直せないものを、直せないまま、持つ。

持っているのは、こちらだ。

妻が、四十五年、持っていたものを、こちらが、持つ番だ。

ソウルミッション358

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