刷り
裏返しに届いていたこと

朗読で聴く
第一章 三十年の言葉
六十四になった。
娘は、四十だ。
娘が、家を出たのは、十八のときだ。
出てから、三十年近く、電話で、同じことを、言った。
ちゃんと、食べてる。
無理、しないで。
早く、寝なさい。
三つだ。
三つを、順番を変えて、言った。
言わない電話は、無かった。
無い日は、こちらが、落ち着かなかった。
娘は、うん、と言った。
うん、で、電話が、終わった。
うん、の前に、少し、間があった。
間があることを、気にしなかった。
終わってから、思った。
言えた。
言えたので、安心した。
安心して、また、月が変わると、言った。
三十年、言った。
言った数は、数えていない。
数えなくても、多い。
多いのは、心配だったからだ。
心配を、言葉にすると、三つになった。
三つしか、無かった。
無かったので、三つを、繰り返した。
繰り返すことが、心配することだった。
心配することが、母親のすることだった。
そう、思っていた。
去年の秋まで、そう、思っていた。
第二章 娘の言葉
去年の秋、娘が、帰ってきた。
久しぶりに、泊まった。
夜、台所で、二人で、お茶を、飲んだ。
飲みながら、こちらは、言った。
ちゃんと、食べてる。
娘は、湯のみを、置いた。
置いて、言った。
お母さんは、私を、信用してなかったよね。
三十年、ずっと。
こちらは、意味が、分からなかった。
分からないので、黙った。
娘は、続けた。
食べてる、って、食べてないと思ってるから、聞くでしょう。
無理しないで、って、無理してると思ってるから、言うでしょう。
私が、ちゃんと、できてないと、思ってた。
三十年、思われてた。
娘は、泣いていなかった。
泣かないで、言った。
言い慣れた言い方だった。
慣れるほど、長く、思っていたのだ。
こちらは、そうじゃない、と、言った。
言ったが、あとが、続かなかった。
続かないのは、娘の言うことが、筋が、とおっていたからだ。
通っていた。
食べてる、と聞くのは、食べていないかもしれないと、思うからだ。
思うのは、心配だからだ。
心配は、信用していないことと、外から見れば、同じ形をしている。
同じ形が、三十年、娘に、届いていた。
こちらは、心配を、言っていた。
娘には、疑いが、届いていた。
裏返しだ。
第三章 版と刷り
版画を、習ったことがある。
若いころ、公民館で、一年。
板を、彫って、紙に、刷る。
彫るときは、板を、見ている。
刷り上がりは、左右が、逆になる。
逆になることを、知っていても、彫るときは、忘れる。
板の上の字が、紙で、裏返しになって、初めて、思い出す。
娘の言葉を聞いて、それを、思い出した。
こちらは、板を、彫っていた。
三十年、心配という字を、彫っていた。
彫った字を、見て、安心していた。
安心したのは、板を見ていたからだ。
紙は、見なかった。
紙は、娘の手にある。
娘は、その紙を、三十年、引き出しに、しまっていた。
しまって、月に一度、足していた。
娘の手にある紙には、裏返しの字が、ある。
疑い、と、読める。
こちらが彫ったのは、心配だ。
娘が持っているのは、疑いだ。
同じ板から、出た。
同じ板から、逆のものが、出た。
出ることを、知らなかった。
知らないで、三十年、刷った。
三十年、娘は、裏返しの字を、受け取った。
受け取って、うん、と言った。
うん、の中に、何が、あったのかを、こちらは、聞かなかった。
聞かないで、次の月も、彫った。
彫るたびに、裏返しが、届いた。
届いた数は、こちらの言った数と、同じだ。
多い。
第四章 版を見せる
娘が、帰る朝、言った。
昨日は、言い過ぎた。
こちらは、言い過ぎではない、と、言った。
言ってから、板の話を、した。
版画の、話だ。
彫っているときは、裏返しになることを、忘れる、と。
娘は、黙って、聞いた。
こちらは、続けた。
お母さんが、彫っていたのは、心配だった。
あなたが、受け取ったのは、疑いだった。
同じ板だ。
同じ板から、逆のものが、出ていた。
娘は、少し、黙った。
黙ってから、言った。
なんで、心配って、言わなかったの。
こちらは、答えた。
言わなくても、分かると、思っていた。
娘は、言った。
分からないよ。
裏返しだもん。
娘が、裏返し、と、言った。
こちらの言葉を、使った。
使って、笑った。
笑ったので、こちらも、笑った。
笑って、思った。
板を、見せた。
三十年で、初めて、板を、見せた。
板には、心配、と、彫ってある。
娘は、初めて、板の側を、見た。
見て、裏返しだもん、と、言った。
言えたのは、板と紙の、両方を、見たからだ。
両方を見た人は、娘が、初めてだ。
こちらは、板しか、見ていなかった。
娘は、紙しか、持っていなかった。
両方を、同じ朝に、見た。
見て、娘は、紙を、こちらに、渡さなかった。
渡さないで、持って、帰った。
持っていていい、と、こちらは、思った。
それも、こちらが、刷ったものだ。
第五章 言い方
娘が、帰った。
月が、変わって、電話を、した。
ちゃんと、食べてる。
言ってから、足した。
心配だから、聞いてる。
娘が、笑った。
知ってる。
言い方は、変えていない。
三つの言葉は、そのままだ。
そのままの言葉に、一言、足した。
足したのは、板の側の字だ。
板の側の字を、紙に、書き添えた。
書き添えると、裏返しでも、読める。
読めるようになったのは、六十四だ。
三十年、読めないものを、送っていた。
送ったものは、戻らない。
戻らないが、娘は、持っている。
持っているものが、疑いから、心配に、読み替わるかは、分からない。
分からないが、次からは、心配のまま、届く。
届くように、一言、足す。
足す一言は、短い。
短いが、板を、見せる一言だ。
彫るだけの人が、三十年、彫っていた。
彫るだけでは、届かない。
届くのは、刷りだ。
刷りは、裏返しだ。
裏返しになることを、忘れずに、彫る。
忘れないでいるのは、娘が、教えてくれたからだ。
紙を、持っていた人が、板の側に、来て、教えた。
教えられて、初めて、こちらは、紙の側を、見た。
エピローグ
公民館の版画を、一枚、押し入れから、出した。
四十年前の、刷りだ。
台所の、湯のみを、彫った。
湯のみの取っ手が、左に、ある。
彫ったときは、右に、あった。
右に彫って、左に、出た。
知っていて、彫った。
知っていたのは、湯のみのときだけだ。
言葉のときは、忘れていた。
忘れて、三十年、右に彫って、左に、出した。
出たものを、娘が、持っている。
持っているものを、取り替えることは、できない。
できないので、これからの刷りに、一言、足す。
足した刷りが、重なっていく。
重なれば、下の裏返しは、少し、見えにくくなる。
見えにくくなるまで、足す。
三十年ぶん、足す。
足すのは、電話のたびだ。
月に一度だ。
年に、十二枚。
三十年ぶんには、三十年、かかる。
かかっても、足す。
ちゃんと、食べてる。
心配だから、聞いてる。
娘が、笑う。
笑いが、届く。
届いたものは、裏返っていない。
初めて、裏返っていないものが、こちらに、返ってきた。
あなたの魂のテーマに気づく場所