あなたの魂のテーマを探す に戻る

横顔

向かい合わなかったこと

横顔

朗読で聴く

第一章 流しの前

五十九になった。

母は、二年前に、八十八で、死んだ。

母と、台所に、並んで立った。

三十年だ。

流しの前に、母が、左。

こちらが、右。

母が、洗った。

こちらが、拭いた。

拭いたものを、棚に、上げた。

三十年、その順番だった。

順番が、変わった日は、無い。

流しの前は、窓だ。

窓の外は、隣の壁だ。

壁を、二人で、見た。

見るものが、無いので、見た。

見ながら、話した。

話すとき、母は、こちらを、向かなかった。

こちらも、向かなかった。

手が、濡れているからだ。

濡れた手で、向くと、水が、飛ぶ。

飛ばないように、前を、向いたまま、話した。

三十年、前を向いたまま、話した。

話は、たくさん、した。

したのに、母の顔が、無い。

顔を思い出そうとすると、横顔が、出る。

左の、横顔だ。

こちらが、右に、立っていたからだ。

母の右の横顔を、こちらは、知らない。

正面の顔も、知らない。

知っているのは、左の横顔だけだ。

三十年、それだけを、見た。

見た、というのも、違う。

目の端に、あった。

端にあるものを、見た、とは言わない。

母は、目の端に、三十年、いた。

第二章 仏壇の顔

仏壇に、写真がある。

母の、正面の顔だ。

毎朝、手を、合わせる。

合わせて、顔を、見る。

知らない顔だ。

知らない、というのは、言い過ぎだ。

母の顔だと、分かる。

分かるが、この向きの母と、こちらは、いなかった。

いなかった向きの母が、仏壇にいる。

いた向きの母は、写真に、無い。

横顔の写真は、誰も、撮らない。

撮らないので、残っていない。

残っていないものが、こちらの持っている、母だ。

娘が、三十だ。

娘が、仏壇の写真を見て、言った。

おばあちゃん、こんな顔だったね。

こちらは、うん、と言った。

言ってから、思った。

娘は、正面の母を、知っている。

娘は、向かいに座る人だった。

母は、娘が来ると、食卓に、座った。

向かい合って、座った。

こちらは、そのとき、台所に、いた。

台所から、二人の横顔を、見た。

母の、左の横顔と、娘の、右の横顔だ。

向かい合った二人は、横顔だった。

横にいたこちらだけが、二人の顔を、両方、見なかった。

見なかったのは、台所に、いたからだ。

台所にいたのは、母の横に、いたからだ。

母の横は、こちらの、場所だった。

場所が、顔を、決めていた。

第三章 右の横顔

母の、右の横顔を、一度だけ、見た。

最後の年だ。

母が、病院にいた。

ベッドの、右側に、椅子があった。

座ると、母の、右の横顔が、あった。

初めて、見た。

左と、違った。

ほくろが、無かった。

左には、ほくろが、ある。

目の下だ。

三十年、目の端に、あったほくろだ。

右には、無い。

無い顔を、見て、別の人の顔だと、思った。

別の人ではない。

母だ。

母の、こちらが知らない側だ。

知らない側を、母は、三十年、こちらの反対に、向けていた。

向けていた先には、流しの、壁がある。

壁が、母の右の横顔を、三十年、見ていた。

壁のほうが、こちらより、見ていた。

そう思って、少し、笑った。

笑って、母の右の顔を、見た。

母は、目を、閉じていた。

閉じた目の、右側。

こちらの知らない、母の半分。

半分を、三十年、隣に置いて、知らなかった。

知らないで、済んでいた。

済んでいたのは、左の半分で、足りていたからだ。

足りていた。

左の横顔と、濡れた手と、前を向いたままの声で、足りていた。

足りていたことを、右の横顔を見て、知った。

足りないものを、見て、知った。

第四章 向かい合わなかった

母と、向かい合ったことが、あるか、考えた。

あった。

食卓で、娘がいないとき。

母が、向かいに座ることが、あった。

あったが、こちらは、立っていた。

立って、母の、後ろを、通った。

通って、台所に、行った。

向かいに座っても、こちらは、座らなかった。

座らないので、向かい合わなかった。

向かい合う時間が、三十年、無かった。

無かったのではない。

作らなかった。

作らなかったのは、いっしょに、いたからだ。

いっしょにいると、向かい合わない。

向かい合うのは、客だ。

娘は、客だった。

客だから、正面の顔を、もらった。

こちらは、客ではなかった。

客でないので、横顔を、もらった。

もらったものが、少ないとは、思わなかった。

三十年、思わなかった。

仏壇の正面の顔を、見るまで、思わなかった。

見て、思った。

母の正面を、こちらは、もらっていない。

もらっていないものを、娘が、持っている。

娘が、持っているものを、こちらは、うらやまなかった。

うらやまないで、考えた。

母は、どちらを、多く、持っていたか。

娘の正面か。

こちらの横顔か。

こちらの横顔だ。

三十年、右に、あった。

母の目の端に、こちらが、いた。

こちらの、左の横顔が、いた。

母も、こちらの、正面を、持っていない。

同じだ。

同じものを、持っていない。

持っていないもので、いっしょにいた。

正面が、無くても、いられた。

いられたのは、横に、いたからだ。

第五章 娘の右

娘が、台所に、来た。

こちらが、洗っていた。

娘が、右に、立った。

拭く、と言った。

拭いた。

こちらが、左。

娘が、右。

順番が、できた。

母と、こちらの、順番だ。

娘に、教えたことは、無い。

無いのに、右に、立った。

右が、空いていたからだ。

空いた右に、娘が、入った。

母がいた左に、こちらが、いる。

こちらの、左の横顔が、娘の、目の端にある。

ほくろは、無い。

無いが、向きは、同じだ。

娘は、こちらの、左の横顔を、もらっている。

正面は、食卓で、もらっている。

両方、持っている。

母から、正面。

こちらから、横顔。

両方あるのは、娘だけだ。

娘に、言った。

おばあちゃんとも、ここで、こうだった。

娘は、前を向いたまま、言った。

知ってる。

見てたから。

見てた、と言った。

娘は、食卓から、二人の横顔を、見ていた。

こちらが、台所から、二人の顔を、見なかった、そのあいだ。

娘は、向かいから、二人を、見ていた。

見ていた人が、いた。

二人の横顔を、横から、見ていた人が、いた。

二人は、壁を、見ていた。

見ていたものが、壁で、よかった。

壁を見ているあいだ、娘が、こちらを、見ていた。

見ていたので、娘は、右に、立てる。

立ち方を、見て、知っていた。

教えなかったものが、伝わった。

横顔で、伝わった。

エピローグ

朝、仏壇に、手を合わせた。

正面の母を、見た。

見てから、顔を、右に、向けた。

仏壇の横の、壁を、見た。

母を、目の端に、置いた。

置くと、左の横顔になった。

知っている顔だ。

三十年、こうやって、いた。

こうやっていれば、いる。

いる向きが、ある。

正面は、娘のものだ。

横は、こちらのものだ。

どちらも、母だ。

持っているほうを、持っている。

持っていないほうを、欲しがらない。

欲しがらないで、三十年、いた。

いたので、これからも、いる。

目の端に、母を、置いて。

台所に、行く。

左に、立つ。

右が、空いている。

空いた右は、見ない。

見ないで、洗う。

洗って、拭くものを、右に、置く。

置いたものを、取る手が、無い。

無くても、置く。

置く場所は、横だ。

三十年、そこだった。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所