向かいの席
向かい合わなかったこと

朗読で聴く
第一章 並んだ席
六十六になった。
夫は、去年の春に、七十で、死んだ。
結婚して、四十年だった。
台所の、食卓は、四人がけだ。
二人で、使っていた。
夫が、壁側の、右。
こちらが、その、左。
並んで、座った。
正面には、テレビがある。
テレビの上に、窓がある。
向かいの席は、空いていた。
空いた席は、客の席だった。
娘が帰ると、そこに座った。
娘が帰らない日は、誰も座らない。
四十年、そうだった。
並んで、食べた。
並んで、テレビを見た。
夫が、何か言うと、こちらは、テレビを見たまま、返事をした。
うん。
そう。
夫も、テレビを見たまま、言った。
顔を、向けなかった。
向けなくても、聞こえた。
聞こえるので、向けなかった。
四十年、向けなかった。
向けないのが、ふつうだった。
向かい合って座るのは、店に行ったときだけだ。
店には、年に、二度、行った。
二度、向かい合った。
向かい合うと、話が、続かなかった。
続かないので、料理を、見た。
料理を見て、うまい、と、夫が言った。
そう、と、こちらが言った。
同じ返事だ。
家でも、店でも、返事は、同じだった。
同じ返事を、四十年、横に、置いた。
第二章 空いた席
夫が、死んで、食卓が、広くなった。
広くなった食卓に、一人で、座る。
自分の席に、座る。
右が、空いている。
空いた席は、見えない。
見えないのは、横に、あるからだ。
横のものは、見ようとしなければ、見えない。
四十年、見ようとしなかった。
しないで、済んだ。
済んだのは、夫が、そこにいたからだ。
いるものは、見なくていい。
いなくなると、見えない。
同じことだ。
いても、いなくても、横は、見えない。
夏に、なった。
娘が、帰ってきた。
娘は、向かいの席に、座った。
いつもの席だ。
娘の顔が、見えた。
向かいだから、見える。
娘の顔は、四十二年、見てきた。
向かいに座るからだ。
夫の顔は、見なかった。
横に座るからだ。
同じ食卓で、一人は、顔を見て、一人は、見なかった。
見なかったほうが、長かった。
娘が、帰った。
帰ったあとの、向かいの席を、見た。
娘の席だ。
娘の席は、見える。
空いていても、見える。
夫の席は、空いていて、見えない。
同じ、空いた席だ。
どちらが、いなくなったのかを、席の向きが、決めている。
第三章 向かいに座る
秋に、なった。
自分の席に、座らないで、向かいに、座ってみた。
娘の席だ。
座ると、テレビが、見えない。
テレビの代わりに、食卓の、向こうが、見える。
夫の席が、見える。
空いた椅子が、あった。
窓を、背にしていた。
夕方の光が、椅子の後ろから、来る。
椅子が、黒くなる。
黒い椅子の形が、光の前に、ある。
四十年、横にあった椅子だ。
横にあったときは、形が、無かった。
向かいに座ると、形が、ある。
形が、こんなに、あるのかと、思った。
背もたれの、丸いところ。
肘掛けの、減ったところ。
夫が、四十年、体を置いたところだ。
置いたところが、光の前で、黒い。
中は、見えない。
見えないが、形は、分かる。
夫の形だ。
夫の形を、初めて、見た。
いなくなってから、見た。
横にいると、同じものが、見える。
テレビ、窓、台所の入り口。
同じものを、四十年、見た。
同じものを見ているあいだ、相手は、見えない。
向かい合うと、相手が、見える。
相手が見えると、同じものは、見えない。
どちらかだ。
こちらは、同じものを、選んでいた。
選んだつもりは、無かった。
無かったが、四十年、そうだった。
その席で、夕飯を、食べた。
黒い椅子に、向かって、食べた。
うまい、と、誰も、言わなかった。
そう、と、こちらも、言わなかった。
返事をする相手が、向かいに、いなかった。
横にも、いなかった。
第四章 見なかったもの
夫の顔を、思い出そうとした。
横顔が、出てきた。
右の、横顔だ。
左側に、四十年、座ったからだ。
正面の顔は、写真の顔だ。
写真は、正面を、向いている。
向いているが、こちらを、見ていない。
写真を撮った人を、見ている。
こちらを見た夫の顔を、こちらは、持っていない。
持っていないのは、見なかったからだ。
見なかったのは、横に、いたからだ。
横にいたのは、いっしょに、いたからだ。
いっしょにいると、見えない。
見えないほど、いっしょだった。
そう思うと、少し、楽になる。
楽になってから、思い直した。
夫は、こちらを、見ていたかもしれない。
こちらが、台所に立つとき。
こちらが、皿を、持って来るとき。
並んだ席から、立てば、夫の目に、こちらの背中が、入る。
夫は、背中を、見ていた。
こちらは、夫の背中を、見なかった。
こちらが、台所に立つ人だったからだ。
立つ人は、座っている人を、見ない。
座っている人は、立つ人を、見る。
四十年、見られていた。
見ていなかった。
見られていたことを、いま、向かいの席で、知る。
知ったのは、椅子の形を見たからだ。
肘掛けの、減ったところ。
夫が、そこに、腕を置いて、こちらの背中を、見ていた。
減った形が、その証拠だ。
証拠を、四十年、横に置いて、見なかった。
向かい合っていれば、減ったことが、分かった。
分かっても、何も、言わなかっただろう。
言わなくても、見えた。
見なかった。
第五章 娘の席
正月に、娘が、帰ってきた。
娘は、向かいの席に、座ろうとした。
こちらは、言った。
こっちに、座って。
夫の席を、指した。
娘は、少し、黙った。
黙ってから、座った。
こちらの右に、娘が、いる。
顔が、見えない。
見えないが、いる。
テレビが、正面にある。
窓が、その上にある。
同じものが、見える。
娘と、同じものを、見た。
四十二年で、初めてだ。
娘は、向かいの人だった。
向かいの人は、顔が見える。
顔が見える人は、遠い。
遠いと、思ったことは、無かった。
横に座らせて、分かった。
顔を、見ないで、同じものを見る。
それが、いっしょに、いることだった。
夫と、四十年、していたことだ。
していたことの、名前を、知らなかった。
知らないで、していた。
娘が、何か、言った。
こちらは、テレビを見たまま、返事をした。
うん。
娘が、笑った。
お父さんと、同じ。
同じだ。
同じ席に、同じ返事が、ある。
返事は、横に、置くものだ。
向かい合って、渡すものではない。
横に置いたものを、娘は、受け取った。
受け取って、テレビを、見ている。
こちらも、見ている。
二人で、同じものを、見ている。
見ていない、娘の顔が、右にある。
あることは、分かる。
見なくても、分かる。
四十年、分かっていた。
エピローグ
娘が、帰った。
右の席が、また、空いた。
空いた席に、手を、置いた。
肘掛けの、減ったところに、手が、乗った。
手の形と、減った形が、合った。
夫の腕の、形だ。
見なかった形を、手で、知った。
手は、四十年、この形の、横にあった。
横にあったものは、見えない。
見えないが、触れる。
触れるところに、四十年、いた。
向かいに、座り直すことは、しない。
自分の席に、座る。
右が、空いている。
空いた右を、見ない。
見ないで、そこに、置く。
置くものは、返事だ。
うん。
そう。
誰も、いない右に、置く。
置いたものを、受け取る人は、いない。
いなくても、置く場所は、ある。
場所は、横だ。
向かいでは、ない。
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