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十の言葉

言葉を惜しんできたこと

十の言葉

朗読で聴く

第一章 五十年

七十になった。

アメリカの、小さな町に、住んでいる。

夫は、七十三だ。

結婚して、五十年になる。

五十年、夫に、一日に、十の言葉も、言わなかった。

おはよう。

食べる。

行ってらっしゃい。

おかえり。

おやすみ。

五つで、一日が、終わる日が、多かった。

十を超える日は、年に、数えるほどだった。

夫は、もっと、しゃべった。

しゃべる夫に、こちらは、うん、と、そう、で返した。

返して、五十年が、過ぎた。

言葉を、惜しんだ。

惜しんだ、というのは、いまの、言い方だ。

当時は、惜しんでいるつもりが、無かった。

言わないのが、ふつうだった。

こちらの家は、そうだった。

父も、母も、しゃべらなかった。

しゃべらない家で育ち、しゃべる夫と、結婚した。

夫は、こちらの少なさを、一度も、責めなかった。

責めないので、こちらは、増やさなかった。

増やさないまま、五十年、来た。

来て、去年、夫が、倒れた。

脳の病気だ。

言葉が、少し、出にくくなった。

出にくくなった夫が、ゆっくり、しゃべる。

ゆっくりしゃべる夫の横で、こちらは、聞いている。

聞きながら、思った。

こちらの言葉は、夫の中に、いくつ、あるのだろう。

五十年で、十ずつ。

多くない。

多くないものを、夫は、どうしていたのだろう。

第二章 夫の手帳

夫が、入院した。

入院の準備で、夫の机を、開けた。

開けると、手帳が、あった。

古い手帳だ。

一冊では、なかった。

五十冊、あった。

一年に、一冊。

どれも、薄い手帳だ。

開いた。

日付と、短い言葉が、書いてあった。

こちらの言葉だった。

おはよう、と、こちらが言った日に、おはよう、と書いてある。

ありがとう、と、こちらが言った日に、ありがとう、と書いてある。

五十年ぶんの、こちらの言葉が、全部、書いてあった。

全部だ。

こちらが、惜しんで、少なくした言葉を、夫は、一つも、落とさなかった。

落とさないで、五十年、書いていた。

書いていることを、こちらは、知らなかった。

知らないで、うん、と、そう、を、言っていた。

うん、も、そう、も、書いてある。

日付つきで、書いてある。

書いた夫は、それを、こちらに、見せなかった。

見せれば、こちらは、言葉を、増やしたかもしれない。

増やしたら、夫は、書ききれなかったかもしれない。

書ききれる数を、こちらが、五十年、渡していた。

渡しているつもりは、無かった。

無かったが、夫には、届いていた。

届いたものを、夫は、全部、彫っていた。

黒い版に、白い線で、彫っていた。

五十冊の、白い線だ。

第三章 反対

言葉を惜しんできたのは、こちらだと、思っていた。

惜しんで、少なくして、夫に、渡さなかった。

そう、思っていた。

手帳を、読んで、反対になった。

惜しんでいたのは、こちらでは、ない。

夫だ。

夫は、こちらの言葉を、惜しんでいた。

惜しんで、一つも、無駄にしなかった。

無駄にしないで、書いた。

書いて、取っておいた。

取っておいたものが、五十冊、ある。

こちらは、言葉を、少なくした。

少なくしたものを、夫は、大事にした。

大事にされていたことを、こちらは、知らなかった。

知らないので、少ないままで、いられた。

いられたのは、夫が、惜しんでいたからだ。

惜しむ、というのは、大事にすることだ。

こちらの惜しむは、出さないことだった。

夫の惜しむは、取っておくことだった。

同じ言葉で、反対のことを、五十年、していた。

していた二人の、片方が、病院にいる。

もう片方が、手帳を、持っている。

持って、読んでいる。

読むと、こちらの五十年が、夫の字で、並んでいる。

並んだものは、少ない。

少ないが、一つも、欠けていない。

欠けていないのは、夫が、欠かさなかったからだ。

こちらが、渡した数が、少なかったのではない。

渡した数を、夫が、全部、数えていた。

数えられていた。

五十年、数えられていた。

第四章 病院

病院に、行った。

夫は、ベッドにいた。

ゆっくり、しゃべった。

こちらは、聞いた。

聞いてから、言った。

手帳、読んだ。

夫は、少し、黙った。

黙って、それから、言った。

全部、ある。

全部、と、こちらは、言った。

全部、と、夫は、もう一度、言った。

それだけだった。

出にくい言葉で、二度、言った。

それだけで、分かった。

こちらが、惜しんだと思っていたものは、惜しまれていた。

少ないと思っていたものは、全部だった。

全部を、夫が、持っていた。

持っていた人が、いま、言葉が、出にくい。

出にくい人に、こちらが、言う番だ。

言う番が、五十年、来なかった。

来なかったのは、夫が、しゃべっていたからだ。

しゃべって、こちらに、言わせなかった。

言わせないで、書いていた。

書く人が、いまは、書けない。

書けない人に、こちらが、言う。

何を言うかを、考えた。

考えて、五十年、言わなかった言葉が、一つ、あった。

黒の中に、彫られずに、あった。

彫ることに、した。

彫るのは、初めてだ。

第五章 一本

次の日、病院に、行った。

夫は、起きていた。

起きている夫に、言った。

ありがとう。

五十年で、初めてだ。

初めての一本を、夫は、聞いた。

聞いて、夫の手が、動いた。

手帳を、探す手だった。

手帳は、家にある。

無いので、手が、止まった。

止まった手を、こちらは、握った。

握るのも、五十年で、数えるほどだ。

握って、言った。

書かなくて、いい。

覚えていて。

夫は、うなずいた。

うなずいて、言った。

覚えた。

短い言葉だった。

覚えた、と、五十年、書いていた人が、言った。

言われて、こちらの一本が、夫の中に、入った。

入ったものは、消えない。

消えないものを、五十年、夫は、作っていた。

こちらは、渡すだけだった。

渡すだけの人が、五十年、少なく、渡した。

少なく渡したものを、夫は、全部、持っている。

持っている人に、いま、一本、足した。

足した一本を、夫は、書かない。

書かないで、覚える。

覚えるのに、手帳は、いらない。

いらないと、分かったので、明日も、一本、足す。

足したものは、黒から、白になる。

白になったものを、夫が、持つ。

持っている限り、消えない。

エピローグ

家に帰って、五十冊を、並べた。

一冊目の、一日目を、開いた。

結婚した日だ。

書いてあったのは、一つだった。

はい。

式で、こちらが言った、はい、だ。

それだけが、書いてあった。

夫は、その日から、書いていた。

一日目の字は、若かった。

こちらの、一つ目の言葉から。

一つ目から、五十年、一つも、落とさなかった。

落とさなかった人に、こちらは、五十年、少なく、渡した。

少なくても、全部、届いていた。

届いていたことを、七十で、知った。

知って、五十一冊目を、買った。

夫の机に、置いた。

置いて、一日目に、書いた。

夫が言った、言葉だ。

覚えた。

それだけを、書いた。

こちらが、書く番だ。

書く番が、七十で、来た。

遅い。

遅いが、来た。

来たので、明日も、書く。

夫の言葉を、一つも、落とさない。

ソウルミッション358

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