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出さなかった手紙

言葉を惜しんできたこと

出さなかった手紙

朗読で聴く

第一章 元気

六十二になった。

母は、去年の冬に、死んだ。

九十一だった。

月に一度、電話を、していた。

三十年、していた。

電話は、短かった。

元気、と、こちらが聞く。

うん、と、母が言う。

そっちは、と、母が聞く。

うん、と、こちらが言う。

それで、終わりだ。

二分間で、終わる。

長いときで、三分だった。

二分間を、三十年、続けた。

三十年で、三百六十回だ。

三百六十回、元気、と、うん、を、言った。

三百六十回とも、母は、うん、だった。

ほかの言葉を、電話で、言ったことが、ほとんど、無い。

言うことが、無かったのでは、ない。

あった。

あったが、言わなかった。

言わないで、書いた。

手紙に、書いた。

書いて、出さなかった。

出さない手紙が、引き出しに、ある。

三十年ぶんだ。

数えたことは、無い。

無いが、百は、超えている。

全部、母宛てだ。

宛名だけは、毎回、書いた。

書いて、封をして、切手を、貼らなかった。

全部、母は、読んでいない。

読まないまま、死んだ。

第二章 手紙

手紙には、電話で言えないことを、書いた。

仕事を、辞めたこと。

夫と、うまくいっていない時期があったこと。

娘が、大学を、やめたこと。

母に、会いたいこと。

会いに行かなかった理由が、無いこと。

会いたい、を、書いたのは、七回ある。

七回、書いて、七回、出さなかった。

出さなかった理由は、毎回、同じだ。

書き終えると、書いたことで、済んだ気がした。

済んだので、出す必要が、無くなった。

無くなったものを、引き出しに、入れた。

入れると、翌月の電話で、元気、と言えた。

言えたのは、手紙に、書いたからだ。

書いた分だけ、電話が、短くなった。

手紙が、電話を、食っていた。

短い電話の後ろに、手紙があった。

あることを、母は、知らない。

知らないので、母には、二分間の娘だった。

二分間しか、話さない娘。

ほかに、言うことの無い娘。

そう、思われていた。

思われていたことを、こちらは、平気だと、思っていた。

平気ではなかった。

平気でないから、手紙を、書いた。

書いて、母には、見せなかった。

見せなかったので、母は、二分間の娘のまま、死んだ。

死んだあとで、引き出しを、開けた。

開けて、数えた。

百十二通だった。

第三章 黒い版

百十二通が、黒だ。

黒い版の中に、彫られずに、ある。

電話で言った、元気、と、うん、が、白い線だ。

三十年で、三百六十回。

白い線は、三百六十本、ある。

全部、同じ線だ。

同じ長さで、同じ太さだ。

同じ線が、三百六十本、並んでいる。

母に見えたのは、その線だけだ。

線の後ろの黒を、母は、見なかった。

見せなかった。

見せれば、母は、何か、言った。

言われるのが、怖かった。

何を言われるかは、分からない。

分からないのが、怖かった。

怖いので、黒のままに、した。

黒のままにしたものが、百十二通、ある。

百十二通は、黒の中の、彫られなかった線だ。

彫れば、白くなった。

白くなれば、母に、見えた。

見えたら、母は、二分間の娘では、ないことを、知った。

知らないまま、母は、死んだ。

死んだので、もう、彫れない。

彫っても、見る人が、いない。

いない人に、百十二通が、宛てられている。

宛てられたまま、引き出しに、ある。

引き出しを、閉めた。

閉めて、母の電話番号を、消した。

消したあとも、二分間が、体に、残っている。

月の初めの、日曜の、午後八時。

その時刻になると、手が、電話に、伸びる。

伸びて、止まる。

止まった手が、黒の中に、ある。

手だけが、まだ、電話を、している。

第四章 母の手紙

母の家を、片付けた。

片付けていると、母の引き出しから、封筒が、出た。

こちら宛てだ。

出されていない。

一通では、なかった。

四十三通、あった。

古いものは、封筒が、黄色くなっていた。

母も、書いていた。

書いて、出さなかった。

こちらと、同じだ。

母の手紙を、読んだ。

こちらの手紙と、同じことが、書いてあった。

電話で言えないこと。

父が死んだあと、夜が長いこと。

こちらに、会いたいこと。

会いたい、は、十一回、あった。

こちらより、四回、多い。

四回分、母のほうが、黒が、多い。

母は、電話で、うん、としか、言わなかった。

うん、の後ろに、四十三通、あった。

あることを、こちらは、知らなかった。

知らないので、母は、うん、の人だった。

こちらは、元気、の人だった。

二人とも、黒を、持っていた。

持って、二分間の電話を、三十年、した。

白い線を、三百六十本ずつ、見せ合った。

見せ合って、黒は、見せなかった。

見せないまま、片方が、死んだ。

残った片方が、両方の黒を、持っている。

百十二通と、四十三通だ。

合わせて、百五十五通。

一通も、届いていない。

届かなかったものを、こちらが、全部、持っている。

持っていることを、誰も、知らない。

知らせる相手を、こちらは、まだ、決めていない。

第五章 娘

こちらの娘は、三十五だ。

月に一度、電話が、来る。

元気、と、娘が聞く。

うん、と、こちらが言う。

二分間で、終わる。

終わってから、気づいた。

同じだ。

母と、こちらと、娘。

三代、同じ電話をしている。

誰も、教えていない。

教えずに、同じになった。

同じ二分間を、同じ言葉で。

娘も、書いているかもしれない。

書いて、出していないかもしれない。

分からない。

分からないが、こちらは、書いていた。

母も、書いていた。

なら、娘も、書いている。

書いたものを、こちらは、生きているうちに、読めない。

読めないまま、死ぬ。

死んだあとで、娘が、こちらの引き出しを、開ける。

開けて、百十二通と、四十三通を、見る。

見て、自分の引き出しを、思う。

思って、どうするかは、娘が、決める。

決めるのは、娘だ。

こちらでは、ない。

こちらにできるのは、一つだけだ。

娘が、決める前に、一通、出すことだ。

こちらの黒から、一本、彫ることだ。

彫るのは、娘宛てではない。

母宛ての、百十二通の、一通だ。

届かない。

届かなくても、出す。

出せば、白になる。

白になったものを、娘が、いつか、見る。

エピローグ

百十二通のうち、一通を、選んだ。

会いたい、と書いた、七通のうちの、一通だ。

封は、してあった。

三十年前の、封だ。

母の、昔の住所は、書いてあった。

もう、誰も、住んでいない住所だ。

切手を、貼った。

ポストに、入れた。

入れた音が、した。

薄い音だった。

薄い音を、しばらく、聞いていた。

音がして、黒が、一つ、白になった。

届かない。

届かないが、出した。

三十年で、初めて、出した。

出したので、引き出しは、百十一通になった。

一通、減った。

減った分が、白い線だ。

線は、母には、見えない。

見えないが、ある。

あることを、娘が、いつか、知る。

知ったとき、娘の引き出しが、少し、軽くなるかもしれない。

なるかどうかは、分からない。

分からないが、来月も、一通、出す。

黒を、減らす。

減らした分だけ、線になる。

線になったものは、消えない。

ソウルミッション358

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