白い線
言葉を惜しんできたこと

朗読で聴く
第一章 言わない家
六十八になった。
娘は、四十二だ。
娘に、ありがとう、と言ったことが、無い。
好きだ、とも、言ったことが、無い。
四十二年、一度も、無い。
言わないのが、この家の言葉だった。
こちらの母も、言わなかった。
母の母も、たぶん、言わなかった。
言わないで、飯を出した。
言わないで、服を縫った。
言わないで、夜中に、熱を、測った。
測った手を、ひたいに、当てた。
当てるだけだった。
することが、言葉だった。
したことを、言わなかった。
言うと、したことが、軽くなる気がした。
言葉は、惜しんだ。
惜しむ、という言い方を、こちらは、去年まで、知らなかった。
去年まで、それは、当たり前だった。
当たり前に、言わなかった。
娘は、こちらと、違った。
娘は、言う。
ありがとう、と、こちらに、言う。
お母さん、好きだよ、と、電話で、言う。
言われるたびに、こちらは、返せなかった。
返さないで、そう、と言った。
そう、が、こちらの、返事だった。
そう、のあとに、何も、続けなかった。
四十二年、そう、と言ってきた。
言われた娘が、どんな顔をしていたかを、こちらは、見ていない。
電話なので、見えない。
会っているときも、見なかった。
見ると、言わなければ、ならなくなる。
ならないように、見なかった。
第二章 結婚式
娘の結婚式が、去年、あった。
四十一で、初めての、結婚だ。
式の終わりに、娘が、こちらのところに、来た。
来て、花を、渡した。
渡しながら、言った。
お母さん、育ててくれて、ありがとう。
周りの人が、こちらを、見た。
見られているのが、分かった。
こちらは、花を、受け取った。
受け取って、何か、言おうとした。
言おうとして、出なかった。
一言も、出なかった。
出ないまま、うなずいた。
うなずくのは、言葉では、ない。
うなずいて、花を、持っていた。
娘は、笑って、戻っていった。
笑った顔は、少し、待っていた顔だった。
戻る背中を、こちらは、見た。
見て、思った。
いまだった。
言うなら、いまだった。
いまが、過ぎた。
過ぎたあとに、言葉が、来た。
ありがとう。
おめでとう。
よかった。
三つ、来た。
三つとも、口の中に、あった。
あったのに、出なかった。
出なかった三つが、いま、こちらの中に、ある。
黒い中に、彫られないで、ある。
彫られなかったので、誰にも、見えない。
こちらにだけ、見える。
見えるものを、持って、帰った。
花と、一緒に、持って帰った。
第三章 黒い版
言わなかった言葉は、無くならない。
無くなると、思っていた。
言わなければ、無かったことになる。
そう、思っていた。
違った。
言わなかった言葉は、全部、残っている。
残っているのは、黒い中だ。
彫ったところだけが、白く見える。
彫らなかったところは、黒い。
黒いところに、何も無いのでは、ない。
彫られていないだけだ。
彫れば、白くなるものが、そこにある。
四十二年ぶんの、言わなかった言葉が、黒の中に、ある。
ありがとう、が、何千とある。
好きだ、が、何百とある。
一つも、彫らなかった。
彫ったのは、そう、だけだ。
そう、と、元気、と、気をつけて。
そう、が、白い線で、何本か、ある。
娘に見えるのは、その白い線だけだ。
白い線だけを見て、娘は、育った。
線は、少なかった。
少ない線を、娘は、何度も、見たのだと思う。
育って、それでも、ありがとう、と言う人になった。
なったのは、こちらのおかげでは、ない。
こちらの黒を、娘が、見ていたからだ。
見えないはずの黒を、娘は、見ていたのかもしれない。
見ていたので、言葉を、惜しまない人に、なった。
なった娘の言葉を、こちらは、そう、で受けた。
受けながら、黒を、増やした。
増やした黒を、こちらは、持っている。
持ったまま、六十八になった。
第四章 母
こちらの母も、言わなかった。
母は、九十で、死んだ。
死ぬ前に、病院で、こちらの手を、握った。
握って、何か、言おうとした。
九十年で、初めて、言おうとした。
口が、動いた。
音は、出なかった。
出ないまま、母は、死んだ。
何を言おうとしたかを、こちらは、知らない。
知らないが、分かる。
黒の中の言葉だ。
九十年、彫らなかった言葉が、最後に、口まで、来た。
来て、出なかった。
出なかったものを、こちらは、握った手で、受けた。
受けたものは、言葉ではない。
言葉になれなかった、黒だ。
黒を、こちらは、いまも、持っている。
母の黒と、こちらの黒が、重なっている。
重なった黒を、娘に、渡したくない。
渡したくないのに、渡している。
そう、と答えるたびに、渡している。
渡さない方法は、一つしか無い。
彫ることだ。
黒の中から、一本、白い線を、彫る。
彫るのは、怖い。
六十八年、彫らなかった手だ。
彫り方を、知らない。
知らないまま、六十八になった。
知らないが、母の口は、動いた。
動いたのを、こちらは、見た。
見たので、こちらの口も、動くはずだ。
第五章 電話
娘から、電話が、来た。
いつもの電話だ。
元気、と聞かれた。
元気、と答えた。
娘が、話した。
仕事の話、夫の話、隣の犬の話。
聞いていた。
聞いているあいだ、電話は、二十分、続いた。
聞きながら、黒の中の、言葉を、探した。
探すと、たくさん、あった。
多すぎて、一つを、選べなかった。
選べないまま、娘が、言った。
じゃあね、お母さん。
いつもなら、そう、と言う。
言おうとして、止めた。
止めて、黒の中から、一つ、出した。
ありがとう。
出た。
小さかった。
小さかったが、出た。
出た音は、自分の声に、聞こえなかった。
電話の向こうが、黙った。
黙って、少しして、娘が、言った。
どうしたの。
何でもない、と答えた。
何でもない、も、いつもの線だ。
答えてから、もう一つ、出そうとした。
出なかった。
一つで、精一杯だった。
精一杯を、六十八で、初めて、出した。
精一杯の一つが、白い線に、なった。
六十八年で、一本目の線だ。
一本目を、娘は、聞いた。
聞いた娘の顔を、こちらは、見ていない。
電話なので、見えない。
見えなくて、よかった。
見えたら、二本目が、出なかった。
エピローグ
電話を、切った。
切って、しばらく、座っていた。
黒の中に、まだ、何千とある。
数えられない。
一本、彫っただけだ。
それでも、彫った。
彫ったところが、白い。
白いところを、こちらは、初めて、見た。
自分の黒に、白い線が、あるのを、初めて、見た。
見えるのは、こちらだけだ。
娘には、電話の声だけが、届いた。
届いた声が、娘の中で、白い線になる。
なるかどうかは、分からない。
分からないが、出した。
出したものは、戻らない。
戻らないので、黒が、一つ、減った。
減った分は、白になった。
白は、消えない。
消えないものを、六十八で、一本、作った。
母は、作れなかった。
作れないまま、口だけが、動いた。
こちらは、口が、動いて、音が、出た。
母より、一本、多い。
一本で、いい。
来月の電話で、もう一本、彫る。
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