口笛
癖がうつっていること

朗読で聴く
第一章 父
七十になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
父は、三十年前に、死んだ。
六十二だった。
父は、口笛を、吹いた。
仕事に行く前、ポーチで、靴紐を、結びながら。
いつも、同じ、四つの音だった。
曲では、ない。
上がって、下がって、また上がって、止まる。
それだけの、四つだ。
毎朝、聞いた。
台所の窓越しに、聞いた。
聞いて、こちらは、嫌だった。
四つの音が、父の、全部に、思えた。
無口で、頑固で、四つの音しか、持っていない人。
そう思って、家を出た。
十九のときだ。
出てから、父が死ぬまでの二十年、ほとんど、帰らなかった。
帰らないまま、父は、死んだ。
葬式のあと、ポーチに、立った。
立って、靴紐を、結んだ。
結びながら、口笛が、出た。
四つの音だった。
上がって、下がって、また上がって、止まる。
こちらは、口笛を、吹く人では、なかった。
吹いたことが、無かった。
無かったのに、出た。
父の四つが、こちらの口から、出た。
出たことに、その場で、気づいた。
気づいて、止めた。
止めたが、次の朝も、出た。
止めるのを、一年で、あきらめた。
三十年、毎朝、出ている。
第二章 帽子
口笛だけでは、なかった。
父は、帽子を、少し、右に、傾けて、かぶった。
かぶってから、つばを、二本の指で、押した。
こちらは、帽子を、かぶらなかった。
かぶる人に、なりたくなかった。
五十を過ぎて、日よけに、かぶるようになった。
かぶると、右に、傾いた。
傾いてから、つばを、二本の指で、押していた。
押した手を、見た。
父の手だった。
父の手の、動きだった。
こちらは、父を、見ないように、していた。
見ないようにして、十九年、同じ家にいた。
十九年で、うつるには、十分だった。
十分だったことを、五十で、知った。
知って、帽子を、脱いだ。
脱いでも、次の日、また、傾いた。
傾けているのは、こちらだ。
父ではない。
父は、三十年前から、いない。
いない人の手が、こちらの手で、動く。
動くのを、止められない。
止められないものを、こちらは、癖と、呼んでいる。
癖というのは、押し当てられた跡だ。
押し当てた人は、退いた。
退いたあとに、跡だけが、残る。
残った跡が、こちらの、毎朝だ。
毎朝、四つの音と、右に傾いた帽子で、こちらは、家を出る。
出るたびに、父になる。
なりたくなかった人に、なる。
第三章 息子
息子は、四十だ。
隣の町に、住んでいる。
先月、息子が、来た。
来て、帰るときに、ポーチで、靴紐を、結んだ。
結びながら、口笛を、吹いた。
四つの音だった。
上がって、下がって、また上がって、止まる。
こちらは、ポーチの、戸のところで、聞いていた。
聞いて、動けなかった。
息子は、父を、知らない。
父は、息子が、生まれる前に、死んだ。
会ったことが、無い。
無いのに、父の四つが、息子の口から、出た。
音の高さまで、同じだった。
出たものは、こちらを、とおったものだ。
こちらが、三十年、毎朝、吹いた。
吹いているのを、息子は、子どものころ、聞いていた。
聞いて、うつった。
うつったことを、息子は、知らない。
知らないで、吹いている。
こちらは、それを、聞いていた。
聞きながら、思った。
押し当てた人は、いない。
いなくても、印は、次に、押し当てられる。
こちらは、父に、押し当てられた。
押し当てられた形を、こちらが、持っている。
持っているものを、こちらは、息子に、押し当てた。
つもりは、無かった。
父も、無かった。
無いまま、印が、印を、作る。
こちらは、印だった。
印が、版に、なっていた。
なっていたことを、息子の口笛で、知った。
息子は、帽子を、かぶっていた。
少し、右に、傾いていた。
第四章 反対
こちらは、父の跡を、持っていると、思っていた。
持たされたものだと、思っていた。
嫌なものを、持たされた。
持たされたものは、返せない。
そう思って、三十年、いた。
息子の口笛で、反対に、なった。
こちらは、持っている側では、ない。
押し当てる側だった。
三十年、毎朝、息子の前で、四つの音を、吹いていた。
吹くたびに、息子に、押し当てていた。
押し当てていることを、知らなかった。
知らないので、押し当て続けた。
父も、知らなかった。
知らないで、毎朝、ポーチで、吹いていた。
父が吹いた回数と、こちらが吹いた回数は、たぶん、同じくらいだ。
同じくらい、押し当てた。
押し当てられた息子が、いま、形を、持っている。
持って、息子の子に、押し当てる。
息子の子は、まだ、三つだ。
三つの子が、いつか、四つの音を、吹く。
吹くのを、こちらは、聞けるかもしれない。
聞けたら、それは、父の音だ。
父が、四代目の口から、出る。
父は、そんなことを、知らない。
知らないまま、死んだ。
死んだ人が、四代、続いている。
続いているものを、こちらは、嫌がっていた。
嫌がるのを、やめた。
やめたのは、息子の口笛を、聞いたときだ。
聞いて、動けなかった、あの三十秒だ。
息子の四つの音は、嫌では、なかった。
嫌でないなら、父の四つも、嫌ではなかったのかもしれない。
嫌だったのは、父だ。
音では、ない。
音は、ただの、四つだ。
第五章 四つの音
四つの音を、こちらは、初めて、聞いてみた。
自分で吹いて、自分で、聞いた。
上がって、下がって、また上がって、止まる。
短い。
短いが、形がある。
形は、たぶん、父の父から、来た。
父の父を、こちらは、知らない。
知らない人の形が、こちらの口に、ある。
あることを、七十で、初めて、聞いた。
聞いて、思った。
これは、父では、ない。
父より、古い。
古いものが、父を、とおって、こちらに、来た。
こちらを、とおって、息子に、行った。
行った先で、また、とおる。
とおるたびに、少し、変わるかもしれない。
変わっても、四つは、四つだ。
上がって、下がって、また上がって、止まる。
止まったあとの、間も、同じだ。
間も、うつる。
間まで、うつっている。
うつっているものが、こちらの、一番、深いところにある。
深いところに、父がいて、父の父がいる。
いることを、嫌だと、思わなくなった。
思わなくなったのは、七十だ。
遅い。
遅いが、聞けた。
聞けたので、明日も、吹く。
吹いて、押し当てる。
押し当てる相手は、もう、いない。
いなくても、吹く。
吹くこと自体が、こちらのものに、なった。
エピローグ
朝、ポーチで、靴紐を、結んだ。
口笛が、出た。
四つの音だ。
出たのを、止めなかった。
帽子を、かぶった。
右に、傾いた。
つばを、二本の指で、押した。
押した手を、見た。
父の手で、こちらの手で、息子の手だ。
三つ、重なっている。
重なった手で、戸を、閉めた。
閉めて、通りに、出た。
出るとき、もう一度、四つの音が、出た。
二度目だ。
二度目を、父は、吹かなかった。
こちらだけの、二度目だ。
二度目を、息子は、まだ、知らない。
いつか、うつる。
うつったら、それは、こちらだ。
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