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靴の向き

癖がうつっていること

靴の向き

朗読で聴く

第一章 玄関

五十八になった。

夫は、二年前に、死んだ。

六十一だった。

結婚して、三十年だった。

三十年、同じ玄関を、使った。

夫は、靴を、脱ぐと、必ず、向きを、変えた。

つま先を、戸のほうに、向けて、そろえる。

右の靴を、少し、前に出す。

左は、その後ろだ。

なぜ右が前なのかは、聞いたことが、無い。

聞かないまま、三十年、見ていた。

見ていて、こちらは、そうしなかった。

こちらの靴は、脱いだまま、脱いだ向きだった。

夫は、それを、直さなかった。

直さないで、自分の靴だけ、そろえた。

そろえた靴が、玄関の、右の隅に、あった。

三十年、同じ隅だ。

雨の日も、同じ隅だった。

夫が死んで、靴が、無くなった。

無くなった隅を、こちらは、毎日、見た。

見ていると、床の色が、違うことに、気づいた。

靴が、置かれていたところだけ、色が、薄い。

二つの、靴の形だ。

薄いのは、そこだけ、日に当たらなかったからだ。

三十年、靴が、日を、遮っていた。

右が、少し前で、左が、後ろ。

夫の靴の、向きのままだ。

三十年、そこに、押し当てられていた。

押し当てたものは、無くなった。

形だけが、床に、残った。

残った形を、こちらは、見ていた。

見ながら、自分の靴を、脱いだ。

第二章 右が前

脱いだ靴を、こちらは、そろえていた。

つま先を、戸のほうに、向けて。

右を、少し、前に出して。

左を、その後ろに。

そろえてから、気づいた。

夫の、そろえ方だ。

こちらは、三十年、そうしなかった。

しなかったのに、している。

いつからかは、分からない。

夫が死んでから、だと思う。

思うが、確かではない。

確かなのは、いま、こちらの靴が、夫の向きで、玄関に、あることだ。

あるのを、見た。

見て、その靴を、夫の靴の、薄い形の上に、置いてみた。

置くと、大きさが、違った。

こちらの靴は、小さい。

小さい靴が、大きい形の、中にある。

中にあって、向きだけが、同じだ。

向きは、うつったものだ。

大きさは、うつらない。

うつるものと、うつらないものが、一つの玄関に、ある。

夫は、うつすつもりが、無かった。

こちらの靴を、一度も、直さなかった。

直さないで、自分のだけ、そろえていた。

それを、三十年、見ていた。

見ていただけで、うつった。

見ていただけ、というのは、三十年ぶん、見ていた、ということだ。

うつったことに、夫が死んでから、気づいた。

気づくまで、二年、かかった。

二年、こちらは、夫の向きで、靴を、そろえていた。

誰も、見ていない玄関で。

見ていないのに、そろえていた。

見られるために、そろえていたのでは、ない。

第三章 新聞

新聞のたたみ方も、同じだった。

夫は、読み終わった新聞を、四つに、たたんだ。

二つに折って、また、二つに。

折り目を、手で、押した。

押した新聞を、卓の右の端に、置いた。

こちらは、新聞を、たたまなかった。

読んだまま、広げて、置いていた。

夫が、あとで、たたんだ。

たたむのを、見ていた。

見ていただけだ。

いま、こちらは、新聞を、四つに、たたむ。

折り目を、手で、押す。

卓の右の端に、置く。

置いてから、気づく。

夫の、たたみ方だ。

夫の、置き場所だ。

卓の右の端に、色の薄いところが、ある。

新聞が、三十年、置かれていた形だ。

四つ折りの、大きさだ。

その形の上に、こちらが、たたんだ新聞を、置く。

合う。

大きさも、合う。

合ったのを、見るのが、日課になった。

新聞は、誰がたたんでも、同じ大きさになる。

同じ大きさになるので、夫の形に、こちらの新聞が、入る。

入ったのを、見る。

見て、少し、怖くなった。

こちらは、どこまで、夫になるのか。

なるつもりは、無い。

無いのに、手が、なっていく。

手だけが、先に、なっていく。

手のあとを、こちらが、ついていく。

第四章 うつる

うつる、というのは、選ばないことだ。

選んでいたら、うつらない。

真似だ。

真似は、いつでも、やめられる。

うつったものは、やめられない。

やめようとして、靴を、脱いだ向きのままに、してみた。

してみると、落ち着かなかった。

落ち着かないので、そろえた。

そろえると、右が、前に出た。

出るのを、止められなかった。

止められないものが、こちらの中に、入っている。

入れたのは、夫ではない。

夫は、入れるつもりが、無かった。

こちらが、入れたのでも、ない。

三十年、同じ玄関にいたことが、入れた。

三十年が、押し当てた。

押し当てられたほうが、形を、持つ。

形を持っているのは、こちらだ。

夫は、持っていない。

夫は、もう、いない。

いない人の形を、こちらが、毎日、玄関で、作っている。

作っていることを、誰も、見ない。

息子が、たまに、来る。

来て、玄関を、見る。

見て、何も、言わない。

言わないが、一度、靴を、見ていた。

こちらの靴の向きを、見ていた。

見て、自分の靴を、同じ向きに、そろえた。

右を、前に出して。

息子も、こちらと同じで、三十年、そろえなかった。

そろえない息子が、そろえた。

そろえたのを、こちらは、見た。

見て、何も、言わなかった。

言えば、息子は、直しただろう。

直してほしくなかった。

第五章 二つの形

玄関の右の隅に、薄い形がある。

夫の靴の形だ。

その隣に、こちらの靴を、置いている。

置いている位置は、三十年、変わらない。

変わらない位置に、こちらの靴の形も、いつか、残る。

残ったとき、二つの形が、並ぶ。

大きい形と、小さい形だ。

向きは、同じだ。

右が前で、左が後ろ。

同じ向きの、二つの形が、玄関に、残る。

残るのを、こちらは、見られない。

見るのは、息子だ。

息子は、二つの形を、見て、何を、思うだろう。

思わないかもしれない。

思わなくても、息子の靴は、同じ向きに、なる。

なるのを、こちらは、もう、見た。

見たので、分かっている。

うつるものは、見ているだけで、うつる。

言わなくても、うつる。

言わないほうが、うつる。

夫は、言わなかった。

こちらも、言わない。

言わないで、そろえる。

そろえるのを、息子が、見る。

見て、息子が、そろえる。

それだけで、三代、同じ向きになる。

同じ向きの靴が、いつか、三つ、並ぶ。

並ぶ日を、こちらは、見ない。

見なくても、向きは、残る。

残るものを、いま、こちらが、作っている。

エピローグ

朝、玄関に、立った。

夫の靴の、薄い形が、あった。

二年、見ている形だ。

少しずつ、周りと、同じ色に、なっていく。

形の中に、何も、無い。

無いところに、こちらの靴を、置いてみた。

小さい靴が、大きい形の中に、入った。

入って、向きが、合った。

合ったのを、しばらく、見た。

見てから、靴を、元の位置に、戻した。

戻すとき、右を、前に出した。

出したことに、気づいた。

気づいて、そのままにした。

そのままで、いい。

夫の向きだ。

夫の向きで、こちらの靴が、ある。

あるのを、見て、外に出た。

出るときに、靴を、履いた。

履くと、右足が、先に、出た。

右が、先だ。

それも、夫だった。

ソウルミッション358

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