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よいしょ

癖がうつっていること

よいしょ

朗読で聴く

第一章 声

六十五になった。

母は、三年前に、死んだ。

八十八だった。

母のことを、こちらは、好きでは、なかった。

嫌いでも、なかった。

近すぎて、どちらとも、言えなかった。

母は、口が多かった。

こちらが何をしても、一言、言った。

その一言が、こちらには、重かった。

塩が多い。干し方が違う。まだ早い。

三つとも、間違ってはいなかった。

間違っていないのが、重かった。

重いので、家を出た。

二十二のときだ。

出てから、四十年、年に二度、会った。

二度の帰省で、母は、また、一言、言った。

言われるたびに、早く帰りたいと、思った。

思いながら、四十年、帰省した。

母が死んで、一言が、無くなった。

無くなって、楽になると、思っていた。

楽には、ならなかった。

言われないことに、慣れなかった。

去年、娘が、来た。

台所で、こちらが、鍋を持ち上げた。

持ち上げるときに、声が、出た。

よいしょ。

娘が、笑った。

お母さん、おばあちゃんみたい。

こちらは、鍋を、持ったまま、止まった。

止まって、自分の声を、思い返した。

鍋は、重くなかった。

重くない鍋に、声が、出た。

よいしょ。

母の声だった。

母が、鍋を持つときに、出した声だ。

その声が、こちらの口から、出ていた。

出ていたことに、六十五まで、気づかなかった。

第二章 手

気づいてから、自分の手を、見るようになった。

茶碗を、拭く。

拭き方が、母と、同じだ。

布巾を、二つに折って、親指で、底を押す。

母が、そうしていた。

こちらは、教わっていない。

教わるほど、台所に、立たなかった。

教わっていないのに、同じだ。

箸を、置く。

箸置きに、そろえて、少し、右に、寄せる。

母が、そうしていた。

洗濯物を、たたむ。

袖を、内側に、折ってから、二つにする。

母が、そうしていた。

一つ一つ、見つけた。

一年で、二十は、見つけた。

見つけるたびに、驚いた。

驚いたのは、数ではない。

こちらが、母を、見ていなかったことだ。

見ていなかったのに、手が、覚えていた。

目で、覚えたのでは、ない。

目は、母から、逸らしていた。

逸らしているあいだに、手が、うつされていた。

うつされた、というのは、正しくない。

母は、うつすつもりが、無かった。

こちらも、うつるつもりが、無かった。

つもりの無い二人のあいだで、形だけが、移った。

移ったものが、いま、こちらの手にある。

手を、見る。

母の手では、ない。

母の手の動きが、こちらの手で、動いている。

動いているのは、こちらだ。

押し当てた人は、もう、いない。

押し当てられたほうが、形を、持っている。

第三章 包丁

母の包丁を、もらった。

形見だ。

柄が、減っている。

六十年、握られた柄だ。

握った指の形に、木が、減っていた。

減ったところは、少し、黒い。

減ったところに、こちらの指を、置いた。

合った。

合うことに、驚いた。

合わせたのではない。

置いたら、合った。

母の指の形に減った柄が、こちらの指に、合う。

合うのは、手が、似ているからだ。

似ているのは、うつったからでは、ない。

生まれたときから、同じ形だ。

同じ形の手で、同じ動きをしている。

動きは、うつったものだ。

形は、もらったものだ。

もらったものと、うつったものが、一つの手に、ある。

その手で、包丁を、握る。

握ると、減った柄が、指を、受ける。

受けられているのは、こちらの指だ。

母の指では、ない。

母の指が減らした柄に、こちらの指が、入る。

入って、切る。

切り方も、たぶん、母と同じだ。

同じかどうかを、確かめる相手は、いない。

いないので、確かめない。

確かめる相手がいないことが、形見の、重さだ。

重さは、柄の減ったぶんと、同じくらいだ。

確かめないまま、切っている。

切っていると、母が、後ろに、いる気がする。

いない。

いないのに、手の中に、いる。

第四章 嫌だった

母の一言が、嫌だった。

嫌だったものが、こちらの口から、出る。

娘に、言っている。

娘が何かをすると、一言、言う。

言ってから、気づく。

母の一言だ。

同じ言い方だ。

同じ間だ。

娘は、こちらが、四十年前に、したのと、同じ顔をする。

言い終わってから、気づく。

気づいても、次も、言う。

止められない。

止めようとして、三度、失敗した。

止められないものが、癖だ。

癖は、こちらが、選んだものでは、ない。

選んでいないものが、こちらの一番、深いところにある。

深いところに、母がいる。

嫌だと思っていた母が、こちらの、深いところに、いる。

いることを、六十五で、知った。

知って、嫌だとは、思わなかった。

思わなかったことに、驚いた。

四十年、逃げていた。

逃げた先に、母がいた。

こちらの中に、いた。

中にいるものからは、逃げられない。

逃げられないので、見る。

見ると、母の一言は、こちらを、見ていた一言だった。

見ていなければ、言えない。

こちらは、母を、見なかった。

母は、こちらを、見ていた。

見ていた分だけ、一言が、出た。

出た一言を、こちらは、重いと、思った。

重かったのは、見られていたからだ。

見られていたことが、いま、こちらの手に、残っている。

第五章 娘

娘が、鍋を、持ち上げた。

よいしょ、と言った。

こちらは、聞いた。

聞いて、笑った。

笑ってから、気づいた。

娘が言ったのは、母の声だ。

こちらを、とおって、娘に、行った。

娘は、母を、ほとんど、知らない。

年に二度、会っただけだ。

二度で、うつるものでは、ない。

うつったのは、こちらからだ。

こちらが、押し当てていた。

押し当てているつもりは、無かった。

母も、無かった。

無いまま、三代、同じ声が、出ている。

出ている声を、娘は、まだ、気づいていない。

気づかないまま、いつか、娘の子に、うつる。

うつることを、止められない。

止めなくて、いい。

止めなくていいと、思えたのは、母が死んで、三年たってからだ。

三年、母の形が、こちらの中で、動いていた。

動くたびに、逸らしていた。

動いているものを、こちらは、嫌がっていた。

嫌がるのを、やめた。

やめると、手が、少し、軽くなった。

軽くなった手で、茶碗を、拭く。

布巾を、二つに折って、親指で、底を押す。

母の拭き方だ。

母の拭き方で、こちらの茶碗を、拭いている。

拭いた茶碗を、娘に、渡す。

渡すと、娘が、同じ持ち方で、受ける。

エピローグ

包丁を、といだ。

研ぎ方も、母と同じだった。

同じであることを、もう、驚かない。

といだ包丁で、大根を、切った。

切りながら、よいしょ、とは、言わなかった。

言わなくても、母は、手の中にいた。

いることを、こちらは、知っている。

知っている人は、こちらだけだ。

娘は、知らない。

知らないまま、娘の手に、こちらが、いる。

こちらの中に、母が、いる。

三つ、重なっている。

重なった手が、一つに、見える。

重なったまま、大根を、切った。

切った大根を、母の鍋に、入れた。

入れるときに、声が、出た。

よいしょ。

出た声を、今度は、止めなかった。

ソウルミッション358

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