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三時

眠れずにいること

三時

朗読で聴く

第一章 時刻

六十二になった。

息子は、八年前に、死んだ。

三十だった。

病院で、午前三時十二分に、死んだ。

時刻を、こちらは、覚えている。

医者が、腕の時計を見て、言った時刻だ。

覚えている、というのは、正しくない。

毎晩、そこにいる。

夜、二時半に、目が覚める。

覚めて、台所に、行く。

行って、明かりをつけ、座る。

三時十二分まで、座っている。

過ぎると、明かりを消して、寝る。

八年、それをしている。

夫は、知っている。

知っていて、何も、言わない。

言わないのが、夫の、やり方だ。

やり方に、こちらは、助けられている。

最初の一年は、泣くために、起きていた。

二年目から、泣かなくなった。

泣かなくなっても、起きた。

起きて、座って、時計を見た。

起きる理由が、泣くことでは、なくなった。

なくなった理由を、こちらは、長く、言えなかった。

眠れないのだ、と、人には、言う。

医者にも、言った。

薬を、もらった。

飲んでいない。

飲めば、目が覚めない。

覚めないと、三時十二分に、誰も、いなくなる。

いなくなることが、怖かった。

怖い理由が、去年、分かった。

分かったのは、台所の、椅子の上でだ。

第二章 誰もいない

三時十二分に、誰も起きていないと、その時刻は、無かったことになる。

そう思っていた。

時刻というのは、誰かが、そこにいて、初めて、ある。

誰もいなければ、ただ、通り過ぎる。

通り過ぎる時刻に、息子の、最後があった。

最後があった時刻を、通り過ぎさせたくなかった。

だから、そこにいる。

毎晩、そこにいて、時刻を、通り過ぎさせない。

通り過ぎさせないことが、こちらの、仕事だった。

八年、していた。

誰にも、頼まれていない。

息子にも、頼まれていない。

頼まれていないことを、こちらは、仕事と、呼んでいた。

呼ぶことで、起きていられた。

仕事なら、休めない。

起きているあいだ、家の中で、台所だけが、明るい。

ほかは、暗い。

暗い中に、夫が、寝ている。

息子の部屋も、暗い。

八年、そのままの部屋だ。

戸は、閉めてある。

閉めた戸の前を、毎晩、通る。

暗い部屋の隣で、こちらだけが、光の中にいる。

光の中で、時計を、見ている。

時計の針が、三時十二分に、なる。

なった瞬間を、見る。

見て、過ぎるのを、見る。

過ぎたら、明かりを、消す。

消して、また、明日の二時半まで、寝る。

寝ているあいだは、時刻は、無い。

無いものを、こちらが、毎晩、一分だけ、作っている。

第三章 夫

夫は、九時に、寝る。

寝て、朝の六時まで、起きない。

三時十二分を、夫は、八年、寝て、過ごしている。

過ごしていることを、こちらは、責めない。

責めないが、思うことは、ある。

夫は、あの時刻を、忘れたのだろうか。

忘れていないことは、分かっている。

分かっているが、寝ている。

寝られることが、こちらには、分からなかった。

分からないまま、八年、こちらだけが、起きていた。

去年の秋、夫が、二時半に、起きてきた。

台所に、来た。

来て、こちらの向かいに、座った。

何も、言わなかった。

こちらも、言わなかった。

二人で、時計を、見た。

台所の時計は、息子が、中学のときに、買ったものだ。

三時十二分に、なった。

なって、過ぎた。

過ぎてから、夫が、言った。

毎晩、ここにいたのか。

いた、と答えた。

夫は、うなずいた。

うなずく顔が、少し、老けていた。

うなずいて、言った。

俺は、寝ていた。

寝ていたが、忘れたことは、ない。

その言葉を、こちらは、八年、待っていたのかもしれない。

待っていたことに、言われてから、気づいた。

夫は、明かりを消して、寝に行った。

こちらも、行った。

その夜、初めて、起きていたことが、一人では、なかった。

第四章 仕事

起きていることを、仕事だと、思っていた。

時刻を、通り過ぎさせない仕事だ。

夫が、来た夜、その仕事が、少し、変わった。

通り過ぎさせないのは、こちら一人では、なかった。

寝ていた夫も、忘れていなかった。

忘れていない人が、寝ている。

寝ていても、時刻は、通り過ぎていなかった。

通り過ぎていなかったなら、こちらが、起きている理由は、何だったのか。

考えた。

考えて、分かった。

時刻のために、起きていたのではない。

時刻は、こちらがいなくても、あった。

こちらのために、起きていた。

起きているあいだ、こちらは、息子の母だった。

寝ると、ただの、六十二になる。

六十二の女で、いたくなかった。

息子の母で、いたかった。

いられるのは、三時十二分の、台所だけだった。

台所で、こちらは、八年、母をしていた。

母をするために、眠らなかった。

眠らないことを、眠れないと、呼んでいた。

呼び名を、去年、直した。

直しても、起きている。

起きて、母をしている。

夫が来た夜から、母を、一人で、していない。

夫は、毎晩は、来ない。

週に、一度か、二度、来る。

来る夜を、こちらは、前もって、知らない。

来る夜は、二人で、時計を見る。

来ない夜は、一人で、見る。

どちらの夜も、時刻は、通り過ぎない。

第五章 部屋

息子の部屋の、戸を、開けた。

八年ぶりだ。

開けて、明かりを、つけた。

つけると、机と、椅子が、あった。

八年前の、ままだ。

机の上に、埃が、あった。

埃を、払わなかった。

椅子に、座った。

座って、三時十二分を、待った。

台所ではなく、息子の部屋で、待った。

待っているあいだ、部屋の外は、暗かった。

部屋の中だけが、明るかった。

明るい中に、こちらがいて、息子の椅子がある。

椅子に、こちらが、座っている。

三時十二分に、なった。

なって、過ぎた。

過ぎたあと、こちらは、泣いた。

七年ぶりに、泣いた。

泣いたのは、悲しかったからでは、ない。

八年、台所にいたことが、初めて、報われた気が、したからだ。

報われる、というのは、変な言い方だ。

変だが、そう感じた。

息子の椅子で、息子の時刻を、迎えた。

迎えたことで、八年が、一つに、なった。

なったものを、こちらは、持っている。

持ったまま、明かりを消して、部屋を出た。

出て、戸を、閉めた。

閉めた戸の向こうに、時刻が、あった。

あったものを、こちらは、明日も、迎える。

台所で、迎える。

夫が来れば、二人で。

来なければ、一人で。

一人の夜も、二人の夜も、時刻は、同じだ。

どちらでも、母だ。

エピローグ

今夜も、二時半に、目が覚めた。

台所に、行った。

明かりをつけて、座った。

夫は、来なかった。

来ない夜だ。

一人で、時計を見た。

冷めた茶が、一つ、あった。

三時十二分に、なった。

なって、過ぎた。

過ぎるのを、見た。

見てから、明かりを、消した。

消す前に、息子の部屋の戸を、見た。

閉まっている。

閉まった戸の向こうで、時刻が、過ぎた。

過ぎたことを、こちらが、見ていた。

見ていたのは、こちらだけだ。

だけでいい。

一人でも、時刻は、通り過ぎない。

通り過ぎさせないのが、母だ。

母は、眠らない。

眠れないのではない。

眠らない。

ソウルミッション358

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