二時
眠れずにいること

朗読で聴く
第一章 台所
七十になった。
夫は、九時に、寝る。
寝ると、家が、暗くなる。
暗い家の中で、台所だけ、明かりを、つけている。
そこに、座っている。
二時まで、座っている。
茶を、一杯、いれる。
冷めるまで、飲まない。
冷めた茶を、少しずつ、飲む。
五年、そうしている。
眠れないのだと、夫には、言ってある。
医者にも、そう言った。
眠れない、は、便利な言葉だ。
誰も、それ以上、聞かない。
薬を、もらった。
もらったが、飲んでいない。
飲めば、眠れる。
眠れることは、分かっている。
分かっていて、飲まない。
飲まないので、眠れないのでは、ない。
眠らないのだ。
その違いを、誰にも、言っていない。
言うと、聞かれる。
なぜ、と。
なぜ、に、答えられなかった。
五年、答えを、探していた。
台所の椅子で、探していた。
探しているあいだ、台所の明かりだけが、家の中で、点いていた。
点いているところに、こちらが、いる。
ほかは、みな、眠っている。
夫も、隣の家も、道も。
眠っている中で、一箇所だけ、起きている。
その一箇所を、こちらは、毎晩、五時間、作っている。
作っているのは、こちらだ。
誰にも、頼まれていない。
頼まれていないことを、五年、している。
第二章 今日
なぜ、の答えが、去年、分かった。
寝ると、今日が、終わる。
それだけのことだった。
それだけのことを、五年、言葉にできなかった。
今日は、何もない日だった。
朝、起きて、飯を作り、洗濯をして、買い物に行き、夫と、少し話した。
それだけだ。
それだけの日を、こちらは、七十年、繰り返している。
繰り返して、何も、起きなかった。
起きない日が、終わる。
終わらせるのは、こちらだ。
寝れば、終わる。
寝るというのは、今日を、閉じることだ。
閉じるのを、こちらは、自分の手で、やりたくなかった。
やりたくないので、起きている。
起きていれば、今日は、まだ、続いている。
続いているあいだ、何かが、起きるかもしれない。
起きたことは、五年、無い。
無いが、続けている。
電話も、鳴らない。
鳴らない電話の横で、起きている。
二時になると、あきらめる。
あきらめて、寝る。
寝る前に、明かりを、消す。
消すと、今日が、終わる。
終わったことを、こちらは、いつも、少し、悔やむ。
何もない日を、終わらせた。
終わらせたのは、こちらだ。
誰でもない。
誰でもないことが、こたえる。
第三章 夫
夫は、九時に、寝る。
寝る前に、おやすみ、と言う。
言って、寝る。
寝るのが、早い。
早いことを、こちらは、うらやましいとも、思う。
布団に入って、五分で、寝息になる。
寝息を、こちらは、台所で、聞いている。
聞いていると、夫が、今日を、終わらせたことが、分かる。
夫は、終わらせられる。
何もない日を、平気で、閉じる。
閉じて、朝、また、開ける。
開けたり閉じたりを、夫は、五十年、している。
こちらは、できない。
できないのではなく、しない。
しないことを、夫は、知らない。
眠れないのだと、思っている。
思って、心配している。
心配して、薬を、飲めと言う。
飲まないこちらを、夫は、責めない。
責めないので、こちらは、言わないでいられる。
言わないでいられることに、五年、甘えている。
夫の寝息の中で、こちらは、起きている。
起きているのは、こちらだけだ。
だけであることが、五年、続いている。
続いていることを、悪いとは、思わない。
思わないが、寂しい。
寂しいので、起きている。
起きていれば、寂しいままで、いられる。
寝ると、寂しさも、終わる。
終わらせたくないものが、寂しさだと、去年、分かった。
分かって、少し、驚いた。
第四章 明かり
台所の明かりは、蛍光灯だ。
紐を引くと、点く。
もう一度引くと、消える。
紐を、五年、二時に、引いている。
引く手を、こちらは、見る。
この手が、今日を、終わらせる。
終わらせたくないので、引かない。
引かないで、座っている。
座っていると、明かりの下に、こちらだけがいる。
台所の外は、暗い。
暗いところに、廊下と、居間と、寝間がある。
暗い中に、家がある。
家の中に、夫がいる。
夫の中に、寝息がある。
寝息は、四秒に、一度だ。
数えたことがある。
寝息の外に、こちらがいる。
こちらだけが、光の中にいる。
光の中にいることを、誰も、知らない。
知らないところで、今日が、まだ、続いている。
続いている今日は、こちらだけの、今日だ。
昼の今日は、夫のものでもあった。
夜の今日は、こちらのものだ。
こちらのものである時間を、こちらは、五時間、持っている。
持っていることを、寂しいと、思っていた。
思っていたが、違うかもしれない。
持っている、と、言えるものが、それしか、無いのだ。
無いので、手放さない。
手放さないために、起きている。
起きている理由が、五年で、初めて、言葉になった。
言葉になると、少し、楽になった。
楽になったが、二時までは、起きている。
第五章 二時
二時に、紐を引く。
引く前に、台所を、見る。
見るものは、無い。
流しと、茶碗と、椅子と、こちらだ。
茶碗は、からになっている。
それを、見る。
見て、今日が、これで、終わることを、確かめる。
確かめてから、引く。
引くと、暗くなる。
暗くなった台所を、こちらは、少し、立って、見ている。
見えないものを、見ている。
見えないところに、今日が、あった。
あったものが、もう、無い。
無いことを、確かめてから、布団に、行く。
行くと、夫の寝息がある。
寝息の横に、入る。
入って、目を、閉じる。
閉じるまで、今日だ。
閉じた瞬間に、明日になる。
明日は、また、何もない日だ。
何もない日を、朝、開ける。
開けて、夜、また、閉じない。
閉じないで、二時まで、持っている。
持っている五時間が、こちらの、一日だ。
昼の十七時間は、みんなのものだ。
夜の五時間だけが、こちらのものだ。
こちらのものが、五時間、ある。
五時間を、五年、持っている。
持っていることを、誰にも、言わない。
言わないので、眠れない人だと、思われている。
思われていて、いい。
エピローグ
昨日、夫が、十一時に、起きてきた。
台所に、来た。
来て、椅子に、座った。
こちらの、向かいだ。
何も、言わなかった。
言わずに、座っていた。
眠れないの、とも、聞かなかった。
こちらも、言わなかった。
二人で、明かりの下に、いた。
冷めた茶を、二つ、置いた。
夫は、一口、飲んだ。
いるあいだ、今日が、続いていた。
続いている今日に、夫が、入ってきた。
入ってきたことを、こちらは、嫌だと、思わなかった。
思わなかったことに、驚いた。
夫は、三十分、座って、寝に行った。
行く前に、おやすみ、と言った。
いつもより、二時間、遅い、おやすみだった。
こちらは、それから、二時まで、いた。
いて、紐を、引いた。
引いた手が、いつもより、軽かった。
軽かった理由は、分かっている。
三十分だけ、今日が、二人のものだった。
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