机の跡
かばわれていたこと

朗読で聴く
第一章 二十年
五十八になった。
小さな会社で、事務を、している。
三十年、いる。
そのうちの二十年、同じ上司の下に、いた。
課長だ。
課長は、去年の三月に、定年で、辞めた。
辞めるまで、こちらは、課長を、ふつうの人だと、思っていた。
声が小さく、会議で、あまり、しゃべらない。
しゃべらないので、上には、弱いと、思われていた。
こちらも、そう思っていた。
弱い人の下で、二十年、働いた。
働いて、失敗も、した。
数字を、間違えた。
発注を、二重にした。
大事な書類を、一日、遅らせた。
そのたびに、こちらは、上に、呼ばれると、思った。
呼ばれなかった。
一度も、呼ばれなかった。
呼ばれないので、小さな失敗だったのだと、思っていた。
思っていたのは、間違いだった。
小さくは、なかった。
小さく見えていたのは、こちらの、側からだ。
向こう側は、見なかった。
見なかったというより、見えなかった。
見えないところに、課長が、立っていた。
立っていたことを、こちらは、課長が、辞めてから、知った。
辞める人は、送別会で、話す。
課長は、話さなかった。
話したのは、周りの人だった。
第二章 送別会
送別会で、隣の課の人が、言った。
あなた、二重発注のとき、課長が、部長に、何と言ったか、知ってる。
知らない、と答えた。
自分が、指示した、と言ったのよ。
自分が、確認を、怠った、と。
こちらは、箸を、置いた。
置いて、課長を、見た。
見るのは、二十年で、初めてのような、気がした。
課長は、離れた席で、ビールを、注がれていた。
注がれて、少し、笑っていた。
いつもの、小さい笑いだった。
笑いの向こうで、何をしていたかを、こちらは、知らなかった。
隣の課の人は、続けた。
一回じゃないのよ。
あなたの分だけじゃない。
課の誰かが、何かすると、全部、自分が決めたことにして、上に、行っていた。
行って、頭を、下げていた。
下げているところを、私は、三回、見た。
三回、と、こちらは、言った。
三回は、私が見ただけ、と隣の課の人は、言った。
見ていない分が、いくつあるかは、分からない。
こちらは、二十年の、失敗を、数えた。
数えられるものだけで、十は、あった。
十の回、課長は、上に、行っていた。
行っていたことを、こちらは、知らなかった。
知らないので、課長は、こちらには、弱い人だった。
弱い人が、こちらの上に、立っていた。
立って、光を、遮っていた。
遮られていたところに、こちらは、二十年、いた。
いたことを、その夜、知った。
知って、課長の席に、行った。
行ったが、何も、言えなかった。
言えないまま、ビールを、注いだ。
課長は、ありがとう、と言った。
いつもの、小さい声だった。
第三章 跡
四月に、課長の机が、片付けられた。
机を、運び出したあと、床に、跡があった。
机の脚の、四つの跡と、その内側の、四角い形。
周りの床は、二十年、歩かれて、色が、抜けていた。
机の下だけ、抜けていなかった。
濃い、四角だった。
それを、こちらは、朝、見た。
見て、机の跡だと、思った。
思ったが、違った。
課長の跡だ。
二十年、そこに、座っていた。
座っていたので、そこだけ、色が、残った。
残った色が、床にある。
誰も、踏まなかった色だ。
床の四角を、こちらは、しばらく、見ていた。
見ていると、これは、こちらだと、思えてきた。
色が抜けなかったのは、床ではない。
こちらだ。
こちらが、二十年、覆われていた。
覆われていたところは、見えない。
見えないので、無いのと、同じだった。
同じだと、思っていた。
机を、運び出して、初めて、形が、出た。
出た形は、机の形ではない。
覆っていた人の、形だ。
形は、残る。
人は、いない。
いなくなってから、形で、知る。
知ったときには、礼を言う場所が、送別会の、隣の席しか、無かった。
その席で、こちらは、何も、言えなかった。
第四章 弱い人
弱い人だと、思っていた。
会議で、しゃべらない。
上に、言い返さない。
部長に、何を言われても、はい、と言う。
はい、と言う人を、こちらは、弱いと、思っていた。
弱くは、なかった。
はい、と言って、下を、覆っていた。
覆うには、上に、頭を、下げるしかない。
下げれば、下に、光が、当たらない。
当たらないところで、こちらは、失敗を、続けられた。
続けられたのは、失敗が、上に、届かなかったからだ。
届く前に、課長が、受けていた。
受けたことを、課長は、下に、言わなかった。
言えば、下は、借りを、感じる。
感じさせないために、言わない。
言わないので、下には、弱い人に、見える。
見えることを、課長は、たぶん、知っていた。
知っていて、弱い人で、いた。
二十年、いた。
こちらは、その下で、課長を、少し、見下していた。
見下していたことを、いま、思い出す。
思い出すと、顔が、熱くなる。
熱くなっても、もう、遅い。
遅いので、せめて、覚えている。
覚えていることが、いま、できる、全部だ。
第五章 こちらの下
こちらの下に、いま、二人、いる。
若い人だ。
若い人が、先月、数字を、間違えた。
間違えたことに、こちらが、気づいた。
気づいて、上に、行った。
行って、自分が、確認を、怠りました、と言った。
言いながら、課長の声を、思い出していた。
小さい声で、はい、と言う声だ。
こちらの声も、小さかった。
小さいまま、頭を、下げた。
下げて、戻った。
戻って、若い人に、何も、言わなかった。
言わないので、若い人は、こちらを、弱い人だと、思ったかもしれない。
思われても、いい。
思われるのが、覆うということだ。
覆っている人は、弱く、見える。
見えることを、引き受ける。
引き受けたことを、下には、言わない。
言わないので、下は、覆われていることを、知らない。
知らないまま、色が、抜けずにいる。
抜けずにいることを、いつか、知るかもしれない。
知るのは、こちらが、いなくなってからだ。
いなくなって、机を、運び出したときだ。
そのとき、床に、四角が、残る。
残るのを、こちらは、見られない。
見られなくても、いい。
課長も、見なかった。
エピローグ
朝、早く、出た。
課長の机があったところに、新しい机が、来ている。
来ているので、床の四角は、もう、見えない。
見えなくても、ある。
あることを、こちらは、知っている。
知っている人は、この課に、こちらのほかに、いない。
いないので、こちらが、覚えている。
新しい机に、若い人が、座った。
座って、こちらに、おはようございます、と言った。
おはよう、と答えた。
答えた声は、小さかった。
小さくて、いい。
その日、若い人が、また、間違えた。
間違えたのを、こちらが、直した。
直して、何も、言わなかった。
言わないので、若い人は、間違えたことを、知らない。
知らないまま、帰った。
帰る背中を、こちらは、見ていた。
背中の下に、色が、残っている。
残っていることを、あの人は、知らない。
知らなくて、いい。
こちらも、二十年、知らなかった。
あなたの魂のテーマに気づく場所