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畳の白

かばわれていたこと

畳の白

朗読で聴く

第一章 三十年

六十四になった。

夫の母と、三十年、同じ家に、住んだ。

義母は、去年の秋に、死んだ。

八十九だった。

きつい人だった。

少なくとも、こちらには、そう見えた。

嫁に来た日に、言われた。

この家のやり方は、私が、教えます。

教えられた。

三十年、教えられた。

味噌汁の濃さ、洗濯物の干し方、仏壇の花の向き。

言われたとおりに、した。

したことを、褒められたことは、無い。

褒めない代わりに、直された。

直されるたびに、こちらは、黙った。

黙って、直した。

夫は、何も、言わなかった。

言えば、どちらかの味方になる。

ならないために、黙っていたのだと、いまは、思う。

言わない夫と、言う義母と、黙るこちらで、三十年が、過ぎた。

義母は、縁側の座椅子に、座っていた。

毎日、午後、そこに、座った。

日の当たる、縁側だ。

座って、庭を、見ていた。

見ながら、こちらに、台所から、声をかけた。

その声を、こちらは、三十年、聞いた。

きつい声だと、思っていた。

思っていたことを、いまも、間違いだとは、思わない。

きつかった。

きつかったが、それだけでは、なかった。

なかったことを、義母が死んで、半年たって、知った。

第二章 白い形

座椅子を、片付けた。

法事が、済んだあとだ。

持ち上げると、下の畳が、白かった。

周りの畳は、日に焼けて、茶色い。

座椅子の下だけ、青いままの、白だった。

三十年、覆われていた形だ。

形を、こちらは、見た。

見て、しばらく、動けなかった。

動けないまま、座椅子を、持っていた。

畳が焼けるのを、こちらは、知っていた。

知っていたが、座椅子の下が、焼けていないことは、考えなかった。

覆われているところは、見えない。

見えないので、無いのと、同じだった。

無いものは、数えない。

同じだと、思っていた。

座椅子を、どけて、初めて、形が、出た。

出た形は、座椅子の形ではない。

義母の、座っていた形だ。

三十年、同じところに、座っていた。

座っていたので、そこだけ、焼けなかった。

焼けなかったところを、こちらは、いま、見ている。

見ていると、これが、こちらだと、思えてきた。

焼けなかったのは、畳ではない。

こちらだ。

こちらが、三十年、覆われていた。

覆っていたのが、義母だとは、その日は、まだ、思わなかった。

思ったのは、夫の妹が、来た日だ。

第三章 妹

夫の妹が、来た。

義母の遺品を、分けるためだ。

分けながら、妹が、言った。

お姉さん、母は、あなたのことを、いつも、褒めていたのよ。

こちらは、手を、止めた。

褒められたことは、一度も、無い。

そう言うと、妹は、笑った。

あなたの前では、言わないのよ。

親戚の前では、いつも、言っていた。

あの嫁は、よくやる、と。

よくやる、を、こちらは、一度も、聞いていない。

叔母さんが、あなたのことを、何か言ったときは、母が、言い返した。

うちの嫁のことは、私が、言います、と。

こちらは、知らなかった。

知らないところで、三十年、言われていた。

言われていたことを、義母は、こちらに、言わなかった。

言わないので、こちらには、きつい人だった。

きつい人が、親戚の前に、立っていた。

立って、こちらを、覆っていた。

覆われているこちらには、覆っているものが、見えない。

見えるのは、覆っているものの、こちら側だけだ。

こちら側は、きつかった。

向こう側で、何をしていたかを、こちらは、見なかった。

見なかったのではない。

見えないところに、あった。

妹は、それ以上、言わなかった。

言わずに、義母の着物を、畳んだ。

畳む手が、義母の手に、似ていた。

似ている手を、こちらは、見ていた。

第四章 覆う

覆うというのは、何も言わないことだ。

言えば、覆っていることが、分かる。

分かると、覆われている側は、借りを、感じる。

借りを感じさせないために、言わない。

言わないので、きつい人になる。

義母は、きつい人になることを、選んだ。

選んだのかどうかは、もう、聞けない。

聞けないが、そうだったと、思う。

思う理由は、こちらが、同じことをしているからだ。

息子の嫁に、こちらは、何も言わない。

言わないが、夫の親戚の前では、言う。

あの子は、よくやる、と。

嫁には、言わない。

言うと、嫁が、借りを感じる。

感じさせたくないので、言わない。

言わないので、嫁には、こちらは、たぶん、きつい人だ。

きつい人の下で、嫁は、焼けずにいる。

焼けずにいることを、嫁は、知らない。

知らないことを、こちらは、知っている。

知っていて、言わない。

言わないことを、こちらは、義母から、習った。

習ったことに、気づいたのは、畳の白を、見てからだ。

三十年、直された。

直されたことしか、覚えていない。

直された数の分だけ、向こう側で、かばわれていた。

数は、同じだ。

同じ数を、こちらは、片方しか、数えなかった。

第五章 縁側

縁側に、座ってみた。

義母の座っていた、白いところに、座った。

座ると、庭が、見えた。

義母が、三十年、見ていた庭だ。

庭の向こうに、道がある。

道を、親戚が、通る。

通るのが、ここからは、見える。

義母は、ここで、見ていた。

誰が来るかを、先に、見ていた。

見て、台所のこちらに、声をかけた。

叔母さんが来るよ、と。

その声を、こちらは、きつい声だと、思っていた。

知らせる声だった。

知らせて、玄関に、先に、立った。

先に立って、叔母と、話した。

話しているあいだ、こちらは、台所で、茶を、いれていた。

いれている時間が、こちらの、白だった。

白の中で、こちらは、直されたことを、数えていた。

数えているあいだ、玄関で、義母が、何を言っていたかを、こちらは、聞かなかった。

聞かなかったものが、三十年ぶんある。

三十年ぶんの、聞かなかった言葉の上に、こちらは、座っている。

座椅子の下の白は、その形だ。

形だけが、残った。

言葉は、残らなかった。

残らない言葉で、こちらは、焼けずにいた。

焼けずにいたことを、義母は、こちらに、知らせなかった。

知らせないのが、かばうということだった。

六十四で、それを、知った。

知ったときには、礼を言う相手が、いない。

いないので、座っている。

エピローグ

座椅子を、元の場所に、戻した。

白い畳の上に、置いた。

置くと、白は、また、見えなくなった。

見えなくなっても、ある。

あることを、こちらは、知っている。

知っている人が、この家に、一人だけ、いる。

息子の嫁が、来た。

台所で、茶を、いれてくれた。

いれているあいだ、こちらは、縁側に、座っていた。

座って、庭を、見た。

道を、誰かが、通った。

通るのを、見て、台所に、声をかけた。

お客さんが、来るよ。

声は、きつかったかもしれない。

きつくても、いい。

嫁は、はい、と答えた。

答えて、茶を、もう一つ、いれた。

いれている嫁の下に、白がある。

白を、嫁は、知らない。

知らないまま、焼けずにいる。

それで、いい。

こちらも、そうだった。

ソウルミッション358

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