まあまあ
本気を出さなかったこと

朗読で聴く
第一章 十二年
六十八になった。
娘は、四十だ。
娘は、六つから十八まで、ピアノを、習った。
十二年だ。
週に一度、教室に、送った。
家では、毎日、一時間、弾かせた。
弾いたあとに、娘は、こちらを、見た。
見る顔に、こちらは、言った。
まあまあね。
十二年、それを、言った。
まあまあね。もう少しね。悪くないわね。
言葉は、三つくらいしか、無かった。
三つを、回して、使った。
回しているあいだ、娘の手は、速くなっていった。
速くなる手を、こちらは、見ていなかった。
娘は、うまかった。
うまいことを、こちらは、知っていた。
教室の先生も、言った。
お母さん、この子は、うまいですよ。
そうですか、と答えた。
答えて、家で、まあまあね、と言った。
うまい、と、言わなかった。
一度も、言わなかった。
言わなかった理由を、そのころは、考えなかった。
褒めると、伸びない、と思っていた。
思っていたのは、本当だ。
本当だが、それだけでは、なかった。
娘は、十八で、やめた。
やめる、と言った日に、こちらは、そう、と答えた。
そう、とだけ答えた。
やめないで、とは、言わなかった。
ピアノは、いまも、家にある。
蓋は、二十二年、閉まっている。
閉まった蓋の上に、こちらは、花を、置いている。
置くと、ピアノに、見えない。
第二章 電話
去年、娘が、電話で、言った。
お母さん、私、一度も、褒められたことがない。
何のこと、と聞いた。
ピアノ、と娘は言った。
一度も、うまいって、言われなかった。
こちらは、答えなかった。
答えられなかった。
娘の言うとおりだったからだ。
娘は、続けた。
先生には、言われた。
友だちの、お母さんにも、言われた。
お母さんだけが、まあまあ、だった。
まあまあ、と、娘は、こちらの声で、言った。
こちらの声を、娘は、四十になっても、覚えていた。
覚えているのは、十二年、聞いたからだ。
電話のあと、ピアノの前に、座った。
蓋は、閉まったままだ。
閉まった蓋を、見た。
見ながら、考えた。
なぜ、うまい、と言わなかったのか。
言えば、娘は、喜んだ。
喜ぶ顔を、こちらは、見たかったはずだ。
見たかったのに、言わなかった。
言わない代わりに、次の曲を、指した。
言わなかったのは、言うと、望んでしまうからだ。
うまい、と本気で言えば、本気で、望む。
もっと、うまくなってほしい、と。
望むと、それは、こちらのものになる。
娘の結果が、こちらの望みの、結果になる。
うまくいけば、こちらの、喜びだ。
いかなければ、こちらの、失望だ。
どちらも、こちらのものだ。
それが、怖かった。
第三章 まあまあ
まあまあ、は、望まない言葉だ。
まあまあ、と言えば、望んでいないことになる。
望んでいなければ、娘が、どうなっても、こちらのせいでは、ない。
うまくなっても、こちらは、望んでいなかった。
やめても、こちらは、望んでいなかった。
望んでいないので、傷つかない。
傷つかないために、まあまあ、と言った。
十二年、言った。
言われた娘は、まあまあの、ピアノを、弾いた。
うまかったのに、まあまあに、なった。
したのは、こちらだ。
本気で褒めれば、娘は、本気で、弾いた。
本気で弾けば、どこまで行ったかは、分からない。
分からないところに、行かせなかった。
行かせると、こちらが、本気で、望むことになる。
望んだ先で、娘が、転ぶかもしれない。
転んだ娘を、こちらは、見なければならない。
見る自分を、想像した。
想像して、耐えられないと、思った。
思ったので、望まなかった。
望まないことを、まあまあ、と言った。
言葉が、よかった。
まあまあ、は、否定ではない。
悪い、と言っていない。
言っていないので、責められない。
責められないところに、十二年、立っていた。
立っていた場所を、娘は、四十で、言い当てた。
言い当てられて、こちらは、答えられなかった。
答えの代わりに、元気、と聞いた。
元気、と娘は、答えた。
まあまあの、返事だった。
第四章 孫
娘の子が、七つになった。
ピアノを、習っている。
娘が、教室に、送っている。
先月、発表会に、行った。
孫が、弾いた。
弾き終えると、娘が、立ち上がった。
立ち上がって、手を、叩いた。
叩いて、言った。
すごい。すごい。
周りの人が、振り向くほどの、声だった。
振り向かれても、娘は、やめなかった。
孫は、舞台の上で、笑った。
笑う顔を、こちらは、見た。
見て、娘の十二年を、思った。
娘は、一度も、あの顔を、しなかった。
させなかったのは、こちらだ。
娘は、娘の子に、本気で、言っている。
すごい、と。
本気で言えば、本気で、望む。
望んだ先で、孫が、転ぶかもしれない。
転んでも、娘は、見るのだろう。
見て、また、すごい、と言うのだろう。
娘は、こちらが、できなかったことを、している。
できなかった理由を、娘は、知らない。
知らないまま、こちらの反対を、している。
反対をする娘の横で、こちらは、手を、叩いた。
小さく、叩いた。
手が、小さくしか、動かなかった。
六十八になっても、まだ、小さい。
第五章 蓋
ピアノの蓋を、開けてみた。
二十二年ぶりだ。
鍵盤は、黄色くなっていた。
一つ、押した。
音は、出た。
狂っていたが、出た。
狂った音が、こちらの、二十二年だ。
この鍵盤を、娘は、十二年、押した。
押した音を、こちらは、まあまあ、と言った。
言った日の、娘の顔を、思い出そうとした。
思い出せない。
思い出せないのは、見ていなかったからだ。
見ると、望んでしまう。
望まないために、顔を、見なかった。
見ないで、まあまあ、と言った。
言われた娘が、どんな顔をしていたかを、こちらは、知らない。
知らないまま、四十年が、経った。
知らない顔が、去年、電話で、しゃべった。
一度も、褒められたことがない、と。
その声は、怒ってはいなかった。
怒っていないのが、こたえた。
怒れば、まだ、望んでいる。
娘は、もう、こちらに、望んでいない。
望まない娘に、こちらは、育てた。
まあまあ、で、育てた。
鍵盤を、もう一つ、押した。
狂った音が、部屋に、残った。
二十二年、鳴らなかった音だ。
残った音を、聞いた。
聞いて、蓋を、閉めなかった。
エピローグ
娘に、電話をした。
用は、無かった。
無いまま、かけた。
娘が、出た。
どうしたの、と聞いた。
こちらは、言った。
あなたのピアノは、うまかった。
電話の向こうが、黙った。
長く、黙った。
黙っている間を、こちらは、待った。
娘が、言った。
遅いよ。
遅い、とこちらも、言った。
二十二年、遅い。
遅くても、言った。
言うと、望んだ。
いまさら、何を望むのかは、分からない。
分からないが、望んだ。
望んで、怖くなかった。
六十八で、初めて、望んで、怖くなかった。
娘が、電話の向こうで、鼻を、すすった。
すする音を、聞いた。
まあまあ、とは、言わなかった。
何も、言わなかった。
言わずに、聞いていた。
聞いている間、ピアノの蓋は、開けたままだった。
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