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そこそこ

本気を出さなかったこと

そこそこ

朗読で聴く

第一章 五十年

七十二になった。

商店街で、文房具の店を、やっている。

五十年になる。

父から、継いだ。

継いだときと、棚の数は、同じだ。

売っているものも、ほとんど、同じだ。

鉛筆、ノート、封筒、糊。

学校の近くなので、子どもが、来る。

来る子どもの数は、五十年で、半分になった。

半分になっても、店は、続いている。

続いているのは、大きくしなかったからだ。

大きくすると、借金がいる。

借金をしなかったので、潰れなかった。

潰れなかったが、大きくもならなかった。

そこそこだ。

そこそこ、と、こちらは、言う。

言うと、たいてい、笑ってもらえる。

笑ってもらえるので、五十年、言っている。

三十年前に、駅前に、大きな店が、できた。

文房具も、売っている。

こちらの店の、十倍の、棚がある。

できた年に、商店街の二軒が、閉めた。

閉めたのは、大きな店と、張り合った二軒だ。

二軒とも、こちらより、若い店主だった。

若いので、押した。

一軒は、品を増やして、借金で、潰れた。

一軒は、値段を下げて、潰れた。

こちらは、何もしなかった。

しなかったので、残った。

残ったことを、うまくやった、と、人は言う。

うまくやったのではない。

やらなかったのだ。

第二章 妻

妻が、一度、言った。

二十年、前だ。

あなた、一度でいいから、本気で、やってみたら。

何を、と聞いた。

何でも、と妻は言った。

店でも、何でも。

こちらは、笑って、そこそこでいいよ、と答えた。

妻は、それ以上、言わなかった。

言わなかったが、その顔を、覚えている。

がっかりした顔では、なかった。

分かっていた顔だった。

言っても無駄だと、分かっていて、一度だけ、言った顔だった。

その顔を、二十年、忘れない。

忘れないのに、何もしなかった。

妻は、五年前に、死んだ。

死ぬまで、二度目は、言わなかった。

言わなかったのは、一度で、分かったからだ。

こちらが、本気を出さない人間だということが。

出さないのは、怠けているからでは、ない。

朝六時に起きて、夜八時まで、店にいる。

五十年、休んだのは、正月と、妻の葬式の日だけだ。

働いている。

働いているが、押していない。

押すというのは、結果が出ることだ。

結果が出ると、それは、こちらのものになる。

うまくいっても、いかなくても、こちらのものだ。

こちらのものに、なるのが、嫌だった。

そこそこなら、結果は、誰のものでもない。

時代のせいにも、駅前のせいにも、できる。

できるように、五十年、押さなかった。

第三章 棚

店の棚を、見る。

どの棚も、同じ深さだ。

奥まで、同じ品が、同じ数、並んでいる。

多く仕入れたものが、無い。

少なく仕入れたものも、無い。

全部、そこそこの数だ。

売れても、困らない。

売れなくても、困らない。

困らないように、仕入れている。

五十年、困らなかった。

困らなかった棚が、こちらの、五十年だ。

どれか一つを、山にしたことが、無い。

山にすると、売れなかったときに、山が残る。

残った山は、こちらの、判断の間違いだ。

間違いは、値札を付けたまま、棚に、残る。

間違いが、目に見える形で、店に残る。

それを、見たくなかった。

見たくないので、山を作らなかった。

作らなかった代わりに、当たったことも、無い。

当たるというのは、山が無くなることだ。

無くなる山を、一度も、持たなかった。

持たない店に、客は、そこそこ来る。

そこそこ来て、そこそこ買って、帰る。

帰る客の顔を、こちらは、あまり、覚えていない。

覚えていないのは、客もまた、そこそこだからだ。

こちらが、そこそこにしている。

本気で売った品なら、買った客の顔を、覚える。

覚えるような品を、五十年、置かなかった。

第四章 息子

息子が、月に一度、来る。

店、どうするの、と聞く。

どうもしない、と答える。

息子は、継がない。

継がないことを、こちらは、責めない。

継ぐほどの店に、していない。

していないのは、こちらだ。

息子は、会社で、本気で、働いている。

働いて、二度、失敗した。

一度は、部署が無くなった。

一度は、企画が通らなかった。

通らなかった夜に、息子は、この店に来て、黙って、座っていた。

座っている息子に、こちらは、何も、言えなかった。

言える言葉が、無かった。

失敗したことが、無いからだ。

失敗しない人間は、失敗した人間に、何も言えない。

言えない父を、息子は、見ていた。

言えないまま、茶を、出した。

息子は、茶を飲んで、帰った。

帰る背中が、こちらより、大きく見えた。

息子は、山を作っている。

作って、残して、また作っている。

残った山を、息子は、自分のものだと、言う。

言えるのが、うらやましかった。

うらやましいと、七十二で、初めて、思った。

思ったが、口には、出さない。

出すと、そこそこが、崩れる。

崩れると、五十年が、崩れる。

五十年、崩さないために、そこそこと言ってきた。

第五章 力

力が、無いのでは、ない。

力は、ある。

あることを、こちらは、知っている。

知っているのは、一度、出したことが、あるからだ。

十七のときだ。

走った。

県の大会で、二位だった。

二位の日に、一位の顔を、見た。

一位は、泣いていた。

嬉しくて、泣いていた。

こちらは、泣かなかった。

泣かない自分を、そのとき、見た。

本気で走って、二位で、泣かないなら、本気の意味が、無い。

そう思って、走るのを、やめた。

やめてから、五十五年、本気を、出していない。

出さない理由は、二位の日に、決まっていた。

出しても、泣けない。

泣けないなら、出しても、同じだ。

同じなら、出さないほうが、楽だ。

楽な五十五年を、こちらは、選んだ。

選んだことを、そこそこ、と呼んできた。

呼び名が、よかった。

よい呼び名は、中身を、隠す。

隠れていたのは、泣けなかった十七だ。

十七が、七十二まで、店の奥に、座っている。

座って、棚の深さを、決めている。

決めているのが、十七だと、いまは、分かる。

分かっても、十七は、動かない。

動かないのは、動くと、また、二位になるからだ。

エピローグ

夕方、棚を、見た。

同じ深さの棚が、並んでいた。

その中の、一つの品を、手に取った。

万年筆の、インクだ。

これだけは、いいものだと、五十年、思っていた。

思っていたが、そこそこの数しか、置かなかった。

置かなかった理由が、いま、分かっている。

いいと思うものを、山にすると、山が残ったとき、こちらのいいが、間違いになる。

間違いになるのが、怖かった。

怖かった、と、七十二で、言えた。

言えたので、注文を、出した。

いつもの、十倍だ。

十倍の山が、来週、来る。

来た山が、残るかどうかは、分からない。

分からないものを、五十年ぶりに、店に、入れる。

妻に、言えたらよかった。

言えないので、注文の紙に、書いた。

書いた数字を、しばらく、見た。

見ていると、十七が、少しだけ、動いた気がした。

気がしただけだ。

それでも、山が、来る。

ソウルミッション358

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