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座椅子

間を埋めていること

座椅子

朗読で聴く

第一章 五十年

七十になった。

夫は、七十三だ。

五十年、一緒にいる。

夫は、無口だ。

一日に、十の言葉も、しゃべらない。

結婚した年に、それが分かった。

分かって、こちらが、しゃべった。

夫が黙っているあいだ、こちらが、埋めた。

朝の食卓、夕方の茶、夜の布団。

夫の沈黙が来るたびに、こちらの言葉を、置いた。

五十年、置いた。

置くことが、こちらの役目だと、思っていた。

結婚して、三か月目の夜、夕食のあとに、長い沈黙があった。

こちらは、その沈黙が、怖かった。

怖くて、隣の家の話を、した。

夫は、うなずいた。

うなずいたので、次の日も、話した。

次の日も、うなずいた。

それが、五十年の、始まりだった。

夫は、聞いていた。

聞いて、ときどき、うなずいた。

うなずくだけで、言葉は、無かった。

無い言葉の場所に、こちらの言葉が、あった。

あることで、家が、静かにならなかった。

静かにならないことを、こちらは、よいことだと、思っていた。

去年、夫が、倒れた。

脳梗塞だ。

命は、助かった。

言葉が、出なくなった。

もともと少なかった言葉が、いまは、ゼロになった。

ゼロになった夫の横で、こちらは、いまも、しゃべっている。

五十年と、同じに。

同じにしていることで、夫が倒れる前と、変わらない朝を、作っていた。

作っていたのは、こちらの安心だ。

第二章 娘

娘が、来た。

三日、泊まった。

三日目の夜、娘が、言った。

お母さん、少し、黙って。

お父さんが、何か、言おうとしてる。

黙った。

夫の口が、動いていた。

音は、出なかった。

出ないが、動いていた。

動いている口を、こちらは、五十年、見なかった。

見なかったのではない。

動く前に、こちらが、しゃべっていた。

しゃべっているあいだ、夫の口は、動かない。

動かないのを、無口だと、思っていた。

無口ではなかったのかもしれない。

こちらが、動く場所を、埋めていた。

埋めていたのは、夫の沈黙ではなかった。

夫の言葉の、場所だった。

場所を埋められると、言葉は、置けない。

置けないまま、五十年、夫は、うなずいていた。

うなずいていたのは、こちらの言葉に、ではなかったのかもしれない。

置けなかった言葉に、うなずいていた。

娘は、それを、三日で、見た。

娘は、子どものころ、口数が少なかった。

少ない口数を、こちらは、夫と同じだと、思っていた。

同じではなく、埋められていたのかもしれない。

三日で見えるものを、こちらは、五十年、見なかった。

見なかったのは、見る前に、口が動いていたからだ。

娘は、こちらに、それ以上、言わなかった。

言わない娘の顔が、少し、夫に似ていた。

第三章 白

黙ると、白いものが、見える。

卓の上の、何も無いところだ。

夫と、こちらの、座椅子のあいだ。

そこに、五十年、こちらの言葉を、置いていた。

置かないと、白い。

白いところに、何かが、見える。

見えるのは、夫の顔だ。

こちらの言葉を、聞いていない、夫の顔。

五十年、こちらは、夫が聞いていると、思っていた。

聞いていない顔を、見たくなかった。

見たくないので、言葉で、埋めた。

埋めると、夫は、うなずく。

うなずけば、聞いている顔になる。

聞いている顔を、こちらが、作っていた。

作るために、五十年、しゃべった。

しゃべった中身は、覚えていない。

中身は、何でも、よかった。

何でもいいものを、五十年ぶん、夫に、聞かせた。

白を埋められれば、何でも、よかった。

夫が、何を言おうとしていたかは、いま、分からない。

分からないのは、五十年、聞かなかったからだ。

聞かなかったことを、夫は、責めない。

責める言葉が、もう、出ない。

出ないので、責められない。

責められないことが、いちばん、こたえる。

第四章 口

夫の口は、いまも、動く。

音は、出ない。

こちらは、口を、見る。

見て、黙る。

黙るのは、七十で、初めてだ。

初めてのことを、七十で、始めている。

初めての黙りは、長い。

長いあいだ、白が、見える。

白の中に、夫の口が、動いている。

動いている口が、何を言っているかは、分からない。

分からないまま、待つ。

待つことも、初めてだ。

五十年、待たなかった。

待つ前に、埋めた。

埋めたので、夫は、一度も、言い終えなかった。

言い終えなかった言葉が、いま、口の形で、出ている。

形だけが、出ている。

形を、こちらは、読めない。

読めるようになるかどうかは、分からない。

分からなくても、毎日、見る。

読めないが、見る。

見ているあいだ、こちらは、しゃべらない。

しゃべらないことが、五十年ぶんの、返事だ。

返事が、届いているかどうかは、分からない。

届いていなくても、続ける。

続けることでしか、五十年は、戻せない。

戻せないことは、分かっている。

分かっていて、待つ。

第五章 座椅子

卓を挟んで、座椅子が、二つある。

夫のと、こちらのだ。

同じ座椅子を、五十年、使っている。

卓の真ん中に、何も、置かない。

置かないのは、夫が倒れてからだ。

それまでは、茶碗や、みかんや、新聞が、あった。

置いていたのは、こちらだ。

物でも、埋めていた。

いまは、何も無い。

何も無い卓の上に、白が、ある。

白の向こうに、夫がいる。

夫の口が、動く。

こちらは、黙る。

黙っていると、白の中に、音がある。

夫の息だ。

息は、ゆっくりで、少し、震えている。

息の長さで、何かが、分かる気がする。

五十年、息を、聞いていなかった。

こちらの声で、消していた。

消していた音が、白の中に、ある。

あるものを、聞く。

聞いていると、夫が、こちらを、見る。

見る目が、五十年で、初めて、こちらを、正面から見ている。

正面から見られると、逃げ場が、無い。

逃げ場の無い真ん中で、こちらは、黙っている。

黙っていられる時間が、少しずつ、伸びている。

最初は、十秒だった。

いまは、一分、黙れる。

一分のあいだ、夫の息を、聞いている。

エピローグ

夕方、座椅子に、座った。

夫も、座っていた。

卓の上は、白かった。

白を、埋めなかった。

夫の口が、動いた。

待った。

音は、出なかった。

出なかったが、口の形が、一つ、分かった。

こちらの名前の、最初の音だった。

名前で呼ばれたのは、いつが最後だったかを、こちらは、覚えていない。

五十年、夫は、名前を、言おうとしていたのかもしれない。

言う前に、こちらが、埋めていた。

埋めなかった白に、名前の形が、出た。

形だけで、音は、無い。

音は、無くても、こちらには、届いた。

届いたものに、こちらは、返事をしなかった。

返事をすると、また、埋めることになる。

埋めずに、うなずいた。

五十年、夫がしていたことを、こちらが、した。

うなずくと、夫の口が、閉じた。

閉じた口の向こうで、白が、白のままで、あった。

白のままの卓に、夕方の光が、来た。

光を、二人で、見た。

ソウルミッション358

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