放送室
間を埋めていること

朗読で聴く
第一章 一秒
六十九になった。
三十五年、ラジオで、しゃべった。
深夜の放送だ。
午前一時から、三時まで。
二時間、しゃべった。
二時間で、二万字ほど、しゃべる。
二万字を、三十五年、毎晩、足した。
足した字数は、覚えていない。
しゃべっていないあいだは、曲を、かけた。
曲と曲のあいだに、一秒の、間がある。
その一秒を、こちらは、許さなかった。
一秒の無音は、放送では、事故だ。
事故にしないために、しゃべった。
三十五年、一秒も、空けなかった。
空けないことが、こちらの、仕事だった。
手紙が、来た。
眠れない夜に、あなたの声があると、助かる、と書いてあった。
そういう手紙を、三十五年、何百通も、もらった。
もらうたびに、空けない理由が、増えた。
理由が増えると、空けることが、できなくなる。
できなくなったことに、気づかなかった。
仕事だと、思っていた。
二年前に、辞めた。
辞めた日の最後の放送も、一秒、空けなかった。
辞めて、家にいる。
家には、間がある。
朝の食卓に、ある。
妻が、箸を置いたあとに、ある。
そのあいだを、こちらは、埋める。
天気の話、隣の犬の話、昨日のニュース。
埋めると、妻が、こちらを見る。
見て、何も言わない。
言わない間を、また、こちらが埋める。
埋めて、埋めて、朝が終わる。
妻が、去年、言った。
少し、黙っていて。
第二章 白
黙っていて、と言われて、黙った。
黙ると、白いものが、見えた。
食卓の上の、白いところだ。
何も置かれていない、卓の、真ん中。
そこに、何かが、見える。
見えるものが、何なのかは、言えない。
たぶん、こちらの顔だ。
声の無いこちらの顔を、こちらは、見たことがない。
言えないので、しゃべる。
しゃべると、白いところが、埋まる。
埋まると、見えなくなる。
見えなくなるために、三十五年、しゃべっていた。
聞く人のためだと、思っていた。
深夜に、眠れない人が、聞いている。
その人のために、一秒も空けない。
そう思っていた。
違った。
空けると、こちらに、聞こえるものがあった。
自分の声が無いところで、何が聞こえるかを、知りたくなかった。
知りたくないので、声で、埋めた。
三十五年、埋めた。
埋めたものは、白い紙だ。
紙の全部を、線で、埋めた。
線の下に、紙がある。
あることを、こちらは、知っている。
知っていて、見ない。
見ないために、線を引く。
線を引くために、話す。
話す中身は、何でもいい。
何でもいいことを、三十五年、しゃべっていた。
しゃべっていた中身を、こちらは、ほとんど、覚えていない。
第三章 放送室
放送室に、一度、戻ったことがある。
辞めて、半年目だ。
後輩に呼ばれて、行った。
誰もいない放送室に、入った。
真ん中に、マイクがある。
左右に、同じ卓がある。
同じ椅子がある。
同じ窓がある。
全部が、左右対称に、置かれている。
卓の上には、何も、置かれていなかった。
こちらがいたころは、原稿と、水と、時計が、あった。
いまは、無い。
無い卓が、左右に、二つ。
二つの卓のあいだの、真ん中の、マイク。
マイクは、こちらの口の高さに、まだ、合っていた。
合っているのが、いちばん、こたえた。
真ん中に立つと、逃げ場が無い。
その真ん中で、三十五年、しゃべった。
誰もいない放送室は、静かだった。
静かなのが、怖かった。
怖いので、マイクに向かって、何か、言った。
誰も聞いていないマイクに、天気の話を、した。
した自分に、気づいて、やめた。
やめると、また、白が、見えた。
放送室の白は、家の白より、大きい。
大きいので、その日は、すぐに、出た。
出て、廊下で、後輩と、しゃべった。
しゃべっているあいだ、白は、見えなかった。
第四章 埋める
埋めるというのは、相手のためではない。
それが、二年で、分かった。
妻は、間を、怖がっていない。
妻は、箸を置いたあとの間を、そのままにして、茶を飲む。
飲んでいるあいだ、妻には、白が、見えていない。
見えていないのではなく、見えていても、平気なのだ。
こちらは、平気ではない。
平気でないのは、こちらだけだ。
こちらだけの怖さで、二人の朝を、埋めていた。
埋められた妻は、茶を、ゆっくり飲めない。
妻の茶は、いつも、冷めていた。
こちらの話のあいだに、冷めていた。
飲めないことを、少し黙っていて、と言った。
言われて、初めて、こちらの線が、妻の紙まで、埋めていたことを、知った。
妻の紙は、白いままで、よかった。
白いままの紙に、妻は、茶を、置いていた。
こちらは、そこに、線を引いた。
三十五年、引いていた。
引いているあいだ、線の下に、何があるかを、見ずに済んだ。
済んだことの代わりに、妻の白を、無くしていた。
妻は、四十年、それを、言わなかった。
言わないでいてくれたのだと、いまは、思う。
思うだけで、確かめていない。
確かめると、また、埋めることになる。
第五章 三十秒
黙る練習を、している。
食卓で、三十秒、黙る。
三十秒は、放送では、ありえない長さだ。
放送なら、三十回、事故だ。
三十秒のあいだ、白が、見える。
見えて、しゃべりたくなる。
しゃべらない。
しゃべらないでいると、白の中に、音がある。
妻の茶碗が、卓に当たる音。
窓の外の、鳥。
冷蔵庫の、低い音。
隣の家の、戸が閉まる音。
三十五年、自分の声で、消していた音だ。
消していた音が、白の中に、ある。
あるものを、聞く。
聞いていると、三十秒が、終わる。
終わって、妻が、何か、言う。
妻が言うまで、こちらは、黙っていられた。
黙っていられたことを、妻は、褒めない。
三十秒が、いまは、四十秒になった。
十秒ずつ、白を、増やしている。
褒めないことが、いちばん、楽だ。
楽なことを、六十九で、初めて、知った。
三十五年、楽ではなかった。
楽ではないことを、仕事だと、思っていた。
エピローグ
朝、食卓に、座った。
妻が、箸を置いた。
間が、来た。
白が、見えた。
見えたまま、黙った。
白の中に、妻の湯呑みの音が、あった。
それを、聞いた。
聞いて、まだ、黙った。
妻が、茶を、飲み終えた。
飲み終えて、こちらを、見た。
見て、今日は、暖かいね、と言った。
暖かい日だった。
暖かいと妻が言うまで、こちらは、気づかなかった。
妻が、間を、埋めた。
埋めたのは、妻だ。
こちらでは、ない。
三十五年で、初めて、誰かに、埋めてもらった。
埋めてもらった白は、こちらが埋めた白と、違う色をしていた。
線ではなく、紙のままの、白だった。
紙のままで、話が、始まった。
始まった話に、こちらは、そうだね、と答えた。
答えたあとの間を、埋めなかった。
埋めない間に、鳥が、鳴いた。
鳴いた音を、二人で、聞いた。
聞いているあいだ、白は、白のままだった。
白のままで、朝が、終わった。
終わった朝を、こちらは、初めて、事故だと思わなかった。
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